2015年春のブダペスト滞在/赤松林太郎先生
この文章は、ハンガリー在留邦人の季刊誌『ドナウの四季』夏号に寄稿したものを引用しています。
私とハンガリーとの縁については、私が生まれる10年以上前の東京オリンピックまで遡ることになります。半世紀にわたる長い話は『ドナウの四季』次号執筆の妻・純子に譲ることにして、ここでは3月27日から6日間の日程で開催したリスト・フェレンツ音楽大学(リスト音楽院)でのマスタークラスならびにブダペスト滞在中の出来事について書かせていただきます。
昨年に引き続き2回目になるマスタークラスでは、ドラーフィ・カールマーン(ピアノ科学科長)とレーティ・バラージュの両教授と共に講師を務めさせていただきました。前回の受講生には若手の登龍門でもあるピティナ・ピアノコンペティションや東京音楽コンクールのグランプリ受賞者が含まれていたので、音楽院もハイクラスのマスタークラスとして設定して下さり、両教授によるレッスンも昨年以上に集中力のある濃密な内容でした。2013年秋にリニューアルオープンしたばかりの音楽院は日本のメディアでも取り上げられることが多く、学生たちの興奮も一入でした。最終日はリストが実際に生活していた旧リスト音楽院のホールを使わせていただき、受講生8名と講師3名による修了コンサートで閉幕しました。
マスタークラス期間中は、ブダペスト9区のアーダーム・イエヌー音楽学校が練習会場を提供して下さいました。受講生はコンクールシーズンを控えており、私も音楽院でのレッスン日以外は、終日にわたり補講レッスンをしました。高学年の学生のみバール・ダーヴィド氏にも指導してもらいました。彼とは10年前に国際コンクールを勝ち抜いてきた戦友なので、こうして愛弟子を預けられるようになったことは何よりもうれしい交歓です。
音楽学校では主に200番教室を使わせていただきましたが、教室といっても200名ほど収容できるコンサートホールなので、3月30日には国際交流コンサートが行われました。9区の公式行事として開催いただき、地元のメディアも入りました。日本・ハンガリーの生徒はもちろん、先生方も連弾や2台ピアノで熱演。校長を務められているコカシュ・フェレンツ先生はハンガリーで有名な音楽一家で、多大なご理解とご協力をいただきました。
音楽学校に行く際は、コルヴィンの交差点に建つ工芸博物館が目印になりました。1896年完成で、ハンガリーでも一世を風靡したアールヌーヴォーの名残。西のガウディに対して「東のレヒネル」と呼ばれた作者はペスト生まれ。ハンガリー独特の刺繍をモティーフにした装飾は、ジョルナイ製のセラミックで配され、衝撃的なインパクトを与えています。今なお世紀末と現代が交錯するラビリンスのようなブダペストですが、歩くほどに、なぜこれほど多くの芸術家がこの街を愛したのかが分かるような気がします。
作曲家たちが生きていた当時の楽器をどうしても学生たちに弾かせてあげたいと思い、昨年春のリサイタル以来親しくさせていただいているゴンボシュ・ラースロー館長にお願いして、音楽歴史博物館の楽器を開放してもらいました。小さな教会用のパイプオルガンに始まり、エステルハージ家からハイドンに送られたブロードウッドのフォルテピアノ、リストが弾いたエラール。またフーバイ邸で若きバルトークをはじめR.シュトラウスやトスカニーニが共演した歴史的なベーゼンドルファーは、第二次世界大戦の空爆にも耐えたハンガリーの近代史そのもの。構造や歴史を学ぶだけでなく、私がレクチャーしながら実演した後、学生たちが実際に音色を確かめて、どう弾いたら歌うように奏でられるのか、それぞれにピアノと対話している様子が印象的でした。
4月2日はドナウ交響楽団との共演でした。ウィーンから運び込まれたSK-6(シゲル・カワイ)の音色が、満席のドナウ宮殿で真珠玉のように冴えました。古代ローマの英雄を描いた『コリオラン』序曲で始まった後、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と第4番を演奏しました。ベートーヴェンは古典派とロマン派の分岐点に位置します。第1番協奏曲はそれまでの作曲家が完成させた様式を踏襲するだけでなく、実にベートーヴェンらしい語法で描かれているドラマです。若さ溢れる作品は大きな愛に包まれており、苦難な人生にあっても感謝や希望を忘れないベートーヴェンの人格が見えてきます。彼の10年間の熟成が第4番協奏曲で見られます。すでに次の時代を見ているこの協奏曲で、ピアノは夢を語ります。ベートーヴェンは激動の時代を生きましたが、歴史に翻弄されるのではなく、その嵐の中でどのように生きるべきかをはっきり示しました。私はこのコンサートで2曲を演奏できたことに、ピアニストとして誇りに思っています。とりわけ第4番はハンガリーと縁が深かった純子の亡き父が好きだった作品だけに、どうしても彼女にハンガリーで聴かせてあげたいと思い続けてきました。デアーク・アンドラーシュ氏の情熱的なタクトは、私の想いに応えてくれたばかりではなく、音楽家として忠実にスコアと向き合い、あくまでベートーヴェンたらんとしていました。
満場の温かい拍手に包まれた会になりました。後援いただきました駐ハンガリー日本国大使館の小菅淳一大使や国際交流基金ブダペストセンターの副館長をはじめ、ピアノを提供して下さったカワイ・ヨーロッパとウィーン・スティングル社の各社長、そして各企業の関係者各位にご臨席賜りました。ハンガリーだけでなく日本からも多くの友人が駆けつけて、コンサートを祝福してくれました。練習時間がほとんど取れないスケジュールの中で、コンサートを成功に導いて下さったドナウ交響楽団のマネージャーならびに企画のPropart Hungary Bt.には感謝の念に堪えません。
日本にいる時よりも慌ただしい滞在でしたが、オフ日にはハンガリーの友人たちが集ってくれました。どこのレストランよりも美味しいエディットの手料理。そしてレスリング界の英雄コヴァーチ・シャーンドル・パールの弟にして、ケチケメートの偉大なる詩人コヴァーチ・イシュトヴァーン・ヨージェフが揃えば、いつものようにパーリンカを飲み交わし、トランシルヴァニアへ想いを馳せて、詩が詠み上げられます。「詩は美しい音楽だ」と彼は言います。純子の父はハンガリーの多くの詩を訳しましたが、中でもイシュトヴァーンの詩訳は本にもなりました。純子がハンガリーのファミリーから「ラーニャ(娘)」と呼ばれる由縁です。
『MONTÁZS magazin』ではインタビュー全文(ハンガリー語版・英語版)が掲載されました。またハンガリーの代表的音楽誌『ZENEKAR』3月号でも取り上げていただきましたので、どうぞご覧下さい。
帰国前日の4月4日は大使館より晩餐のお招きをいただき、大使公邸にてすばらしい交流の時を持ちました。先のロンドン五輪で柔道66キロ級銀メダルを獲得したミクローシュ・ウンクバリ選手と、弟アッティラ選手ともご一緒しました。1964年の東京オリンピック以来、ハンガリー柔道界と深く関わってきた純子の父ですが、亡くなってなお生き続けていることに感慨がありました。公邸に新しく入ったばかりのピアノを弾き初め、ハンガリーゆかりの作品を聴いていただきました。これからも音楽とスポーツの両面で、日本とハンガリーの橋渡しができれば幸いです。
ハイライトで振り返るだけでも50年分の歴史を思い返すようで、今回の一つずつの出来事や邂逅に、多くの人生を重ねて見てきたような気がします。外交官になりたかった夢をピアノに託して、少しずつではありますが、私にしかできないことを進めていきたいと思っています。絶えず困難はありますが、家族やハンガリーの友人たちの愛に支えられています。今回もプレゼントされた手作りジャムやワインの瓶をいくつも詰めて、長い帰国の途につきました。