会員・会友レポート

ヴィッルルーエ城の想い出/上田泰史さん

2015/03/05
ヴィッルルーエ城の想い出

上田 泰史

「パリはフランスではない」という言葉を何度か聞いた。様々な地域の文化が入り乱れるこの街の希薄な地方色を揶揄したものだ。パリの滞在も四年目が過ぎようとするこの夏,ふと「パリではないフランス」を見てみたいという思いに駆られた。

思い立ったが吉日,パリの南東約百六十キロの地点にあるブロワを行先と定めた。中世からルネサンスにかけてヴァロワ朝の君主が照臨したこの街は古き仏国の中心,画匠レオナルドを饗応したフランソワ1世の居城ブロワ城や広大な狩りの城シャンボール城を訪れることは「パリではないフランス」を実見することに相違あるまい。

だが,この旅にはもう一つの目的があった。ブロワの隣街シャイユにあるヴィッルルーエ城訪問である。19世紀のピアノ音楽を研究する私にとってこの城館はポスト・ショパン時代の仏ピアノ音楽の重鎮ステファン・ヘラー(1813~88)ゆかりの地。38年にパリに来た若きヘラーはピアノ界の権威F. カルクブレンナーと決別,ドイツ人音楽家サークルに細々と居場所を見出していた。そこに裕福な音楽愛好家ウージェニー・ド・フロベルヴィル夫人が支援の手を差し伸べる。41年,ヘラーは彼女の所領シャイユの館でひと夏を過ごす。彼はこの時「真の美的感覚に関する正しい知識」,「高貴で気取らぬエレガンス」を学んだと後に述懐している。

ブロワの旅宿から館まで片道約三十キロ。ロワール沿いを自転車でひた走る。沿路は一面麦に玉蜀黍。巨大な散水機が造り出す消えない虹の下で,花々が鮮やかに田畑を縁取っている。やがてシャイユに入る。午後二時の炎暑の丘を越えると漸く向こうに城壁が見えた。呼び鈴に応じて出迎えてくれたのは館の主ブルイエ氏。

まず案内された旧家畜小屋には飼料用の溝が部屋のぐるりに。壁に掛かった家畜小屋の説明図はここがモデルになったのだとか。裏へまわると広大な林と芝生。図鑑に載ったという三叉の巨木は主人の第二の誇りである。続いて案内されたのは神秘の地下洞穴。ひんやりと薄暗い内部に噴水跡と円柱に支えられた小型のアーチが佇む。かつて市長も視察に訪れたが遺跡の来歴は判らないのだという。

次に訪れた小礼拝堂ではある悲劇が語られた。『地獄のオルフェ』で知られる作曲家オッフェンバック(1819~80)はド・フロベルヴィル家の客人だった。1850年9月2日,女主人の息子ウジェーヌと甥モーリス,姪アメリア,そしてオッフェンバックは夕食から帰宅した。アメリアは小憩を求め寝室に上り暖炉に火を灯した。彼女が炉辺に身を寄せたその時,火はドレスを伝い焔が全身を包んだ。客と家人が駆けつけた時には既に遅く,2日後に他界した。この礼拝堂は死の間際に新教から旧教に改宗した彼女の魂に捧げられたのだという。46年,彼女に淡い恋心を寄せていたヘラーは傑作『セレナード』作品56を献呈していた。

さて愈々本館に。次々に扉を開けて進むがどの部屋も鎧戸が下りて薄暗い。夏場の室温上昇を防ぐためだという。地上階の一室に古いグランド・ピアノを見つけた。鍵盤の蓋を開けるや,そのピアノは19世紀パリの名高い製造会社エラールの作であることが判明した。弾けば鍵盤の象牙が剝離するほど傷んでいるが,修繕すれば生き返る。懐中電灯を片手に楽器を検分,製造番号「37479」は1864/65年製であることを示す。ヘラーオッフェンバックはこの楽器を弾いたかもしれない。

その後,家族と茶菓のひと時を過ごした。現在の所有者はド・フロベルヴィル家の子孫ではないそうだが,互いに新たな館の歴史を発見できた奇縁を喜び,再会を約束した。

その帰路,向日葵の大輪が芥子粒ほどの大きさで無数に並ぶ畑を眺めつつ「パリではないフランス」に来たことを確信したのは,陽も傾き涼風が頰を撫で始める頃であった。

  • この記事は、地中海学会・月報に掲載されたエッセイを同学会編集部の許可を得て転載したものです。編集委員の皆様にお礼申し上げます。

ピティナ編集部
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