2010年ショパン国際ピアノコンクール2位入賞 オーストリアの青年、インゴルフ ヴンダー(Ingolf Wunder)
PTNA正会員、フルブライト留学生として渡米、
その後1968よりウィーン在住、教師・ピアニストとして活躍。
14才の時にウィーンのコンツェルトハウスでリストのメフィストワルツを異常なテンポと迫力で演奏し、オーストリアの「例外的ピアニスト」というイメージを与えたものだ。概してオーストリア育ちのピアニストは国際の場に出ると、音楽的だがテクニックが弱い、と評価されることが多いからである。
今回のショパンコンクールでは素晴らしい成長をとげた青年ヴンダーが脚光を浴びた。この成功の秘密を聞こうとインタビューを申し込んだところ、快く引き受けてくれたのでここに発表したい。
Photo:Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
インゴルフ・ヴンダー:リンツ時代の先生は、膨大な量の録音を聞くように薦めてくれたので、私はむさぼり食うようにCDを聞いて勉強しました。ホロヴィッツやルービンシュタインとか。多くのピアニスト達は私のアイドルでした。コンサートやCDをたくさん聞いて勉強したので、独学の部分が多かったと感じています。でも、このようにして幅広く聞いた事はとても大切だったと思います。そのリンツ時代にピアニストになりたいと決心したのですから。録音を数多く聴いていたおかげで、曲がとても早く進み、15才でリストのソナタなどを弾いていました。ウィーンでは生のコンサートをたくさん聞いて勉強しました。
2年半位前からショパンを集中して真剣に勉強したいと思い、アダム・ハラシェビッツ (Adam Harasiewicz) 先生のところに通いました。私は彼の唯一の生徒でした。彼はワルシャワとイタリアとザルツブルグに住んでいるので、ザルツブルグでレッスンを受けました。
1955年です。彼はピアニストとして演奏活動をしたけれど、どこの学校でも教師として教えたことはありません。彼にプライベートでおよそ半年位習った後、ショパンがよく理解できたと感じられるようになりました。そして再度ショパンコンクールにチャレンジしようと思ったわけです。2005年にも参加したけれど、あの時はちょっと試してみようと思っただけです。
Photo:Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
これはショパンコンクールの賞です。ファイナルの時にピアノコンチェルトをワルシャワのホールで弾きましたが、特にショパンの曲を弾くのに素晴らしいホールでした。私はピアノコンチェルトはピアノにオーケストラが伴奏をつけているのではなく、一緒に音楽するものと考えています。無意識にオーケストラにモチベ―ションを与えようと思っていました。コンクールはもちろん出場者にとって大変なストレスだけれど、あの場所で弾くこと自体が感激でした。ウィーンのムジークフェラインもとても素晴らしい音響で、気持ちよく弾けました。世界の最高のホールです。昨日はウィーンの楽友協会デビューのコンサートでした。
どうもありがとう。ピアニストにとって最高峰のショパンコンクールで2位になれてうれしいです。ただファイナルのコンチェルトではちょっとしたスキャンダル事件になったのですよ。「全員のスタンディングオーベーションの拍手が出たのはインゴルフ・ヴンダーだけだったのに、なぜ1位にならなかったのか」と批評家などが抗議しました。そのスキャンダルも助けになって、レコーディングやマネジメント契約の申込みがたくさん来ましたが。
音楽的だったと言っていただいて嬉しいです。若かった頃は皆からすごく技術があるが、音楽がない、と言われて悔しくて悩んでいました。しかし自分は絶対に音楽的だと知っていたのです。だから音楽を表現することを特に研究しました。
昨夜は楽友協会のコンサート、午前中のこのインタビューの後、午後に再度ソロのコンサートがあるとのこと。急に忙しい新生活がはじまり、とても張り切っている様子。めずらしくオーストリアから強靭なテクニックと美しい音楽性を合わせもった実力者が出現したように思う。
犬飼和子ヤンコフスキー