論文:ショパンとパリの音楽界 2/岡部 玲子先生
3.ショパンがパリに受け入れられるまで
前章で見てきた背景を踏まえて、ショパンがどうしてパリを目指したのか、そして、どのようにしてパリの音楽界に認められていったのかを考察する。
ショパンは、1810年3月1日にポーランドのワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれた。父はフランス人で、スカルベック家に伯爵の息子の家庭教師として雇われていた。母はポーランド貴族の末裔。一家は、ショパンが生まれて間もなくワルシャワに移った。父がワルシャワに新しくできたリツェウム(高等学校)のフランス語とフランス文学の教職に就いたからである。ショパンは、ワルシャワ音楽院卒業後、自分の力を試すために、1829年にウィーンを訪れた。わずか1ヶ月足らずの滞在の間に、国外で初めての演奏会を2回行い、華々しいデビューを飾り、楽譜の出版も決定した。翌年、フランスの7月革命勃発のニュースにためらいながらも、11月に再びウィーンへ出発した。その直後にワルシャワ蜂起が起こり、ウィーンの対ポーランド感情が悪化、ウィーンで活動が出来ないまま、1831年7月にウィーンを去り、ザルツブルグ、ミュンヘン、シュトゥットガルト(ここでワルシャワ陥落を知る)経由で9月中旬にパリ到着、以後、祖国ポーランドへ一度も戻ることなく、人生の後半をパリで過ごすこととなった。
2度目のウィーン滞在の後に、ショパンが目指した行き先として、イタリア、あるいは、パリ経由でイギリスに赴こうとした等、数多くあるショパンの伝記では諸説言われてきた。しかし、以下の1831年6月25日付のショパンの手紙(ワルシャワの両親宛)からは、目的地として記されたイギリスは、旅券獲得のための手段であり、ショパンがパリを目指していたことが確認できる。
「イギリス向けの旅券を取ってパリに行こうと思います。マルファッティは親友のパエール宛ての紹介状をくれるといっていますし、カンドラーはもうライプチッヒの音楽新聞にぼくのことを書いているのです。」(へドレイ1965:121)
ワルシャワ蜂起後、ロシア大使館は、パリ行きのポーランド人を政治的に怪しんでいた。旅券が取れた報告のショパンの手紙(7月16日付)に、旅券はロシア大使館に二日留め置かれた、とあることから、ショパンの旅券はロシアの干渉を受けていたようである。
では、なぜパリだったのか。ショパンの往復書簡選集(Hedley1962)の翻訳者、小松雄一郎が、その解説の中で、「ショパンがパリに求めたものは、まず第一に『自由、平等、友愛』のフランス、ポーランドの味方であるフランスであって、パリの華麗、エレガンス、『芸術性』ではなかった。」(ヘドレイ1965:529)と言うように、当時の社会情勢から考えても、主たる動機は、身の安全のためであったと考えられる。
ショパンはパリを目指すに当たって、ウィーンから紹介状をいくつか携えてきた。マルファッティからパエールへの紹介状、それから出版社宛にいくつかの紹介状である。ポーランドの師エルスネルからルシュールへの紹介状もあった。それらの中でも、マルファッティが持たせた親友パエールへの紹介状が最も重要だったと考えられる。マルファッティは皇帝公認の医師で、世界的に知られた人物であり、音楽を愛し、ベートーヴェンの臨終を診察した医師だった。マルファッティの妻はポーランド人であり、ウィーンで活動できずに悶々としていたショパンを、度々ポーランド料理でもてなした。マルファッティはショパンの才能が埋もれる事を惜しんで紹介状を書いてくれた。紹介状の宛先、パエール[Paer, Ferdinando 1771-1839]は、イタリアの作曲家で、19世紀の最初の10年間、イタリアのオペラ・セミセリア発展の中心人物の一人だった。フランスでは、当時は、まだ自国の音楽の下地ができていなかったため、招聘されたのである。パエールはヨーロッパ中のほとんどの宮廷から楽長の地位に就くように要請されるほどに、その才能が高く評価されていた。1797-1801年の間は、ウィーンのケルントナートーア劇場の音楽監督を務めた。ここでベートーヴェンと知り合っていることから、マルファッティとの交友関係もこの頃から始まったであろうと推測される。その後、パエールはドレスデンの宮廷楽長となるが、ナポレオンの要請を受けて、1807年に帝室礼拝堂楽長に就任し、オペラ=コミック座の監督やイタリア座の音楽監督を歴任した。彼を引き立ててきたナポレオンが失脚した後は、イタリア座の監督に留まるだけだったが、それでも上流社会での歌や作曲の教師としての収入もあり、影響力のある地位と裕福な生活が十分維持できた。1832年には国王ルイ=フィリップの私設礼拝堂の指揮者に任命されたのであった。
パエールのお陰で、ショパンは役所からパリ滞在を許可されたという(マレック&ゴードン=スミス1981:82)。そして、パエールからは、ケルビーニ、バイヨ、ロッシーニ、カルクブレンナーを紹介された。ショパンが彼らに会ったことは、1831年12月12日の手紙で確認できる(河合2001:24、ヘドレイ1965:132)。これらの人物は、以下に記すように、パリの音楽界における重鎮とも言える名士たちである。
ケルビーニ[Cherubini, Luigi 1760-1842]は、フランスで活動したイタリアの作曲家、指揮者、教師、音楽理論家、学校管理者、音楽出版者である。半世紀にわたるフランス音楽界の重鎮で、1822年より42年までパリ音楽院の院長を務めた。
バイヨ[Baillot, Pierre 1771-1842]は、フランスのヴァイオリン奏者兼作曲家で、パリ音楽院教授、パリ・オペラ座管弦楽団の首席奏者(1821-31年)、1825年から宮廷礼拝堂オーケストラの首席奏者を務めた。
ロッシーニ[Rossini, Gioachino 1792-1868]は、イタリアの作曲家である。19世紀前半、ロッシーニほどの名声と富、大衆の人気、芸術的影響力を誇った作曲家は他にいない。1823年にパリを訪れて国王の歓待を受け、1824年にパリのイタリア座の芸術監督となった。イタリア座はもちろんのこと、オペラ座でも《オリ伯爵》《ウィリアム・テル》等の新作上演や、《ゼルミーラ》《セミラーミデ》等の旧作の改作上演が行われ、まさに一世を風靡した。肉体的にも精神的にも衰えが見え始めた1836年にはイタリアへ移り、1855年に戻るまで長期にわたってパリを離れた。
カルクブレンナー[Kalkbrenner, Frédéric 1785-1849]は、パリ音楽院出身であり、ドイツ生まれのピアニスト兼作曲家、ピアノ教師である。イギリスで活動した後、1824年の末よりパリに落ち着き、ピアノ製造会社プレイエルの技術改良に協力し、同時にすぐれた経営手腕を発揮した。当時、既にピアノ演奏の中心地だったパリで第一人者となり、ヨーロッパ全土に名を馳せた。彼は、全盛期の1831年に、ピアノのメソッド作品108を出版、同年に、若手教師のために、より高度な研修講座を始めた。ショパンは1831年11月にカルクブレンナーを訪ねた時、始めたばかりのこの講座への参加を勧められ、躊躇しながらも断った。その主な理由は、カルクブレンナーが提案した3年間という勉強期間が長すぎると感じたことである。それでも、二人の交流は続き、カルクブレンナーは、1832年2月26日にサル・プレイエルで行われることになるショパンのパリでのコンサートを実現するために積極的に手を貸した。このコンサートが、ショパンのパリでの最初のコンサートである。ショパンはカルクブレンナーに自作のピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11を献呈した(1833年出版)。
パエールは、さらにメンデルスゾーンを(マレック&ゴードン=スミス1981:82)、そして、マリー・プレイエルを(ベーチ2005:31)、ショパンに紹介したという。ドイツの作曲家、メンデルスゾーン[Mendelssohn(-Bartholdy), Felix 1809-1847]は、1825年にパリを訪れた際に、ケルビーニ、カルクブレンナー、バイヨ、ロッシーニと会った。しかし、ショパンとは面会の機会に恵まれなかった。その時は、ショパンがまだパリに来ていなかったからである。メンデルスゾーンは、1831-32年の冬を再びパリで過ごすことになったが、この時にショパンと会っている。この間のいきさつについては未解明の部分が多く、二人の出会いが、ケルビーニ、カルクブレンナー、バイヨ、ロッシーニ等を通してなのか、それとも、パエールが直接ショパンに紹介したのかについては不明である。
一方、マリー・プレイエルという女流ピアニストに関しては後述することとし、まずは、マリーの夫、カミーユ・プレイエル[Pleyel, Camille 1788-1855]から述べたく思う。というのは、夫カミーユは、カルクブレンナーの説明箇所で触れた「ピアノ製造会社プレイエル」と深い関係にあったからである。彼は、父イニャス(イグナス)・プレイエルとの共同経営者(出版社、ピアノ製作会社)であり、特にピアノ製造部門の責任を負っていた。一方で、彼自身、作曲家兼ピアニストでもあった。1832年2月26日のショパンのパリ・デビュー演奏会は、1830年に会社が設立したサル・プレイエルで行われた。二人の交流は、ショパンの生涯にわたって続くのである。
マリー・プレイエル[Pleyel, Marie Moke 1811-1875]は、1830年まで女子校でピアノを教え、フェルディナンド・ヒラーやベルリオーズと同僚だった。ヒラーの恋人だったマリーは、ベルリオーズと恋愛の末、婚約にまで至った。しかし、1830年12月にローマ賞を受賞したベルリオーズがローマへ出発すると、パリに残されたマリーは、恋愛事件のスキャンダルから身を守るために、3ヵ月後にカミーユ・プレイエルと結婚した。この結婚はすぐに破局へと向かい、1835年に正式に離婚した。離婚後、マリーは演奏活動を再開して各地で大成功を収めた。これは、女性の芸術活動が好奇の目で見られた当時としては異例なことである。
このマリー・プレイエルとショパンの出会いに関しては、前述のように、カルクブレンナー、そして夫カミーユ・プレイエルとの関係もあり、ベーチの言うように、パエールの直接の紹介なのかどうか疑問である。マリーは、婚姻中は、夫カミーユ・プレイエルによって音楽サロンの運営を任されていた。ベーチによると、ショパンのデビュー演奏会は、マリー・プレイエルがショパンに演奏会を開くように依頼したという。さらにベーチの言によれば、「ちょうど一ヵ月後の一八三二年三月二十日、ショパンは同じ場所で二回目の演奏会を開く。感謝の意をこめて、ショパンはマリー・プレイエルに、一八三一年に完成していた作品九の《三つのノクターン》のうちの一曲を捧げる。また、作品六十九の一のワルツも夫人への献呈作品である」(ベーチ2005:34)とのことである。このべーチの記述は、検討が必要である。まず、マリーが演奏会を依頼したという部分であるが、ベーチ2005の『音楽サロン』は、副題に、「秘められた女性文化史」と付されていることから判明するように、女性主導の観点をあくまで尊重するような記述の仕方になったと思われる。しかも、「ちょうど一ヵ月後の一八三二年三月二十日、ショパンは同じ場所で二回目の演奏会を開く」とあるが、この日にショパンの演奏会が開かれたという事実は、アトウッド1991やMichałowski;Samson2001等、他のどの資料にも出てこない。これらの資料では、ショパンの次の演奏会は、1832年5月20日、パリ音楽院ホールでの慈善演奏会とされている。それから、「作品九の《三つのノクターン》のうちの一曲を捧げる」という部分であるが、作品9は3曲セットで出版されており、それが、カミーユ・プレイエル夫人(マリー・プレイエル)に献呈されたのであり、そのうちの1曲というのは誤りである。さらに、「作品六十九の一のワルツも夫人への献呈作品である。」というのも、以下に記す理由により誤りである。すなわち、ショパンの作品番号の66以降は、ショパンの死後に親友のフォンタナによって出版されたものである。未出版の小品を書きとめた自筆楽譜を献呈するのは、いわゆる社交辞令のようなものであったため、曲によっては複数の自筆楽譜が存在し、別々の人に献呈されている場合がある。Kobylańskaによると、作品69-1の場合、3種類の自筆楽譜の存在が判明しており、それぞれに次のような書き込みがある(Kobylańska1979:166)。
- (1)
- ショパンの手で、1ページ目の右上方に献呈「pour Mlle Marie」、2ページ目6段目の上に署名「FF Chopin」、7段目の上に場所と日付「Drezno Sept. 1835」が書かれている。
- (2)
- 譜面の右上端にショパンの手で、「à Mme Peruzzi hommage de FF Chopin 1837」と、献呈、署名、日付が書かれている。
- (3)
- 3ページ目の右下にショパンの手で「à Mademoiselle Charlotte de Rothschild hommage F. Chopin Paris 1842」と献呈、署名、場所、日付が書かれている。
ベーチは、ショパンの(1)の献辞を論拠として、「Marie」をマリー・プレイエルと同一視したと思われる。しかし、1835年にドレスデンでこのワルツを贈った「Marie」は、プレイエル夫人とは別人で、ショパンとワルシャワで旧知だったヴォジンスキ家の娘、マリア・ヴォジンスカである。ドレスデンで再会した時、すっかり成長した16歳のマリアにショパンは一目惚れした。そして、ヴォジンスキ家の人々と一緒に1週間過ごした後、ドレスデンを離れるのだが、その際、マリアに贈ったのがこのワルツ作品69-1であり、"別れのワルツ"と呼ばれている。したがって、「作品六十九の一のワルツも夫人への献呈作品である」という記述も誤りということになる。
これらのことから、ベーチのマリー・プレイエルを巡る記述、マリーがショパンに演奏会を依頼したという記述は、信憑性が薄いと思われる。カルクブレンナーがプレイエルとの繋がりでサル・プレイエルを演奏の舞台として用意したという可能性が高いと想定される。
以上、見てきたように、ショパンはパエールから、ケルビーニ、バイヨ、ロッシーニ、カルクブレンナーという、パリ音楽界における其々の分野の中心人物に紹介されたことにより、その後の人脈が広がり、パリでの活動の基盤となったと考えられる。
- 第一部
- 1.
- ベートーヴェン作曲の五重奏曲、バイヨ、ヴィダル、ユルアン、ティルマン、ノルブラン氏の演奏による。
- 2.
- トメオニ嬢とイザンベール嬢による二重唱。
- 3.
- ピアノ協奏曲、F.ショパン氏の作曲および演奏による。
- 4
- .トメオニ嬢によるアリア。
- 第二部
- 1.
- カルクブレンナー氏作曲による、六台のピアノのための序奏と行進曲付き大ポロネーズ、カルクブレンナー、メンデルスゾーン=バルトルディ、ヒラー、オズボーン、ソヴィンスキ、ショパン氏の演奏による。
- 2.
- イザンベール嬢によるアリア。
- 3.
- ブロードによるオーボエ独奏。
- 4.
- モーツァルトの主題による華麗なる大変奏曲、F.ショパン氏の作曲および演奏による。
実際に行われた2月26日のプログラムは残っておらず、資料として残存するのは、予定が延期になる前の1月15日、「ワルシャワ出身のフレデリク・ショパン氏による大演奏会 歌と器楽」と題されたものである。2月26日には、メンデルスゾーンの代わりにソヴィンスキが出演した。
サル・プレイエルで1832年2月26日に行われたショパンのパリ・デビュー演奏会のプログラムは、種々の文献に掲載されており、以下の表2で示されている通りである。五重奏、重唱、オーボエ独奏等、様々な出し物による構成となっている。現在のリサイタルの形態、つまり、一人のピアニストが、全ての演目を暗譜で演奏する形態は、意外にも、1839年のリストの演奏会に端を発するものである。ショパンの演奏会は、当時の習慣に従って、多彩な演目が並べられていたのであった。
表2に見るように、曲名には作品番号や調性などの記載がない。ショパンの協奏曲が、第1番作品11として出版された「ホ短調」なのか、第1番より早くに作曲されていた第2番作品21の「ヘ短調」なのかについては、明らかではない。この点を、エーゲルディンゲルが指摘している(エーゲルディンゲル 2007:201-8)。拙論では、まず、出演メンバーに注目したい。弦楽四重奏団はバイヨが出演を申し出た自分の弦楽四重奏団のメンバー、バイヨ、ヴィダル、ユルアン、ノルブランである。アトウッドによると、バイヨの弦楽四重奏団は、当時パリの尊敬の的であったという(アトウッド1991,上巻:96)。当日の演奏は五重奏曲だったために、さらにもう一人の奏者として、ティルマンが選ばれた。ショパン以外の演奏者名は、姓しか記されていないが、ショパンの手紙等に基づいて名前を明らかにしてその人物像を紹介すると、以下のようになる。
まず、ユルアン[Urhan, Chrétien 1790-1845]であるが、彼は、ドイツ生まれでフランス在住のヴィオラ奏者兼ヴァイオリン奏者、作曲家である。1814年オペラ座管弦楽団に入り、1823年にはその第1ヴァイオリン奏者の席に座り、1836年には同座専属のヴァイオリン独奏者となる。そのかたわらで、バイヨ四重奏団においても活動した(1824-37年)。アントン・ボーラ
ーの四重奏団ではヴィオラを担当した(1830-31年)。1828年、パリ音楽院演奏協会のコンサートマスターとなる。
ノルブラン[Norblin, Louis Pierre Martin 1781-1854]は、フランスのチェロ奏者。ショパンと同様に、父がフランス人、母がポーランド人だった。パリ音楽院卒業、1809年イタリア座管弦楽団入団、1811-41年オペラ座の首席チェロ奏者。1824年から1846年までパリ音楽院で教えた。バイヨ四重奏団のメンバー。アブネックとともに1828年のパリ音楽院演奏協会発足の一員だった。1831年12月14日、ショパンがワルシャワの師、エルスネルに宛てた手紙に「私の演奏会は25日に延期されたこと・・・それをまとめるにはたいへんな面倒がございました。そして、もしパエール、カルクブレンナー、特にノルブリン(先生によろしくと申しております)がおりませんでしたら、こんな短時日で決して演奏会はできなかったでしょう。」(ヘドレイ1965:147)とあることから、ノルブランはエルスネルと既知の間柄だったと思われる。
ティルマン[Tilmant, Théophile 1799-1878]は、フランスの指揮者兼ヴァイオリン奏者である。パリ音楽院で学び、イタリア座とオペラ座の管弦楽団でヴァイオリン奏者として活躍、イタリア座管弦楽団の副指揮者(1834-38年)、首席指揮者(1838-49年)。パリ音楽院演奏協会が設立された年である1828年から始まって、1860年まで副指揮者を務めた。
ヴィダルとブロードについては、詳細不明であるが、アトウッドによると、ヴィダルはイタリア座の指揮者であり、国王のオーケストラではパエールの下で弾いていた。オーボエ奏者のアンリ・ブロードは音楽院で教えるかたわら、パリ・オペラ座でも演奏していた(アトウッド1991,上巻:100)。
スタマティ[Stamaty, Camille (Marie) 1811-1870]は、ピアニスト、作曲家、教師で、カルクブレンナーの弟子だった。ピアニストとしての最初の公開演奏会は、サル・プレイエルで1835年3月15日に行われた。
ヒラー[Hiller, Ferdinand (von) 1811-1885]は、ドイツの指揮者、作曲家、教師。メンデルスゾーンの親友。1828年からほぼ7年間パリに滞在し、数多くの演奏会を開き、ピアニスト、作曲家としての才能が高く評価された。
オズボーン[Osborne, George Alexander 1806-1893]は、アイルランドのピアニスト、作曲家。1826年にパリへ行き、J.P.ピクシスにピアノを、フェティスに和声と対位法を学ぶ。まもなくカルクブレンナーの指導の下にピアノ技巧を完成させ、フランスにおけるカルクブレンナーの演奏スタイルの最もすぐれた演奏者の一人となる。またたく間に、パリ、ロンドン両都市で流行のピアニストおよび高名な教師となった。
ソヴィンスキ[Sowiński, Wojciech 1805(1803?)-1880]は、ポーランドの音楽著述家、ピアニスト、作曲家、教師。1830年以降はパリに住み、主に音楽とピアノの教師として活動した。
声楽家のトメオーニは、18世紀から19世紀にかけて活躍したイタリアの音楽家の一族であるが、この一族に関しては、今でも記述に混乱がある。トメオーニ嬢というのは、おそらくエルミニア・トメオーニ[Tomeoni, Erminia (1783年以降パリ生-1845年以降没)]のことであろう。パリ音楽院で声楽と鍵盤楽器を学び、パリで歌ったり教えたりした後、ツアーに出た。イザンベール嬢については詳細不明である。
これらの出演メンバーは、バイヨとカルクブレンナーが集めてくれた人達だった。声楽家に関しては、ロッシーニの協力もあった。
次に、当日の聴衆に注目すると、その面々は主にポーランドから移り住んできた人たちで、ショパンの音楽家仲間や、ヴォイチェフ・グジマワ伯爵やチャルトルィスキ家およびプラテル家の人々に勧められて来場した貴族たち、それから、カルクブレンナーの招待客である。この客たちは、著名な批評家、作家、ピアニスト、作曲家などパリ音楽界のリーダーたちだった。ヒラーは晩年、ショパンの最初のプレイエルでの演奏会には、パリの「全ての音楽の名士」が集まったと回想している。その中の一人で、ルヴュ・ミュジカル誌の編集長である批評の権威、フェティスは、1832年3月3日の同誌に、「ベートーヴェンが書いたピアノのための音楽と、ショパンの霊感がピアニストのための音楽として創り出したものは全く別である。それは芸術のこの種の分野に大きな衝撃を与えた。メロディは魂から溢れ出たという表現がぴったりで、構成は想像性に満ち、どの部分をとっても独創的であった」と述べている。また、演奏家としても、「気品に満ち、さり気なく優雅で、音が澄んでいてかつ華やかでもあった」等、惜しむことなく称賛してショパンの名を広めた。しかし、即興的な趣が時おり感じられたことを、彼は好ましくないと考えたようである。(批評の全文は、アトウッド1991下巻:151-152)
以上、この演奏会のプログラムの中で、協力者として見える名前は、パリで、パエールがショパンに紹介した人たち、および、その人物とつながりのある人たちである。このデビュー演奏会の成功で、ショパンの名声はパリ中に広まった。つまり、ここでも、マルファッティからのパエール宛紹介状が有効に作用し、ショパンのパリでの出発を決定付けたと言える。
しかし、一方で、再三デビュー演奏会の日にちが延期されたことに関して、エーゲルディンゲルは、「おそらくこれは、カルクブレンナーのショパンに対する嫉妬、すなわちショパンの演奏会を失敗に終わらせようという彼の画策によるのではないだろうか」(エーゲルディンゲル2007:200)と述べている。演奏会は当初、前年の12月25日に予定されていたが、歌手の調達が困難で延期となった。次に1月15日と予告されたが、カルクブレンナーが病気のため延期となった。この際のプログラムでは表2のように、メンデルスゾーンが出演予定であったが、2月に挙行された実際の演奏会では出演はなかった。彼は聴衆の中にいただけだった。出演者交代の理由はわからないが、12月12日付のショパンが友人ティトゥスに宛てた手紙によれば、そこには既にメンデルスゾーンの名前はなく、代わりにソヴィンスキと書かれてあった。ショパンがパリに来た当初、カルクブレンナーが、自分のもとで3年間勉強すれば...、と言った話は有名である。この申し出に対してショパンは喜んで舞い上がっていたが、ショパンの師エルスネルは、カルクブレンナーがショパンに嫉妬して言ったものとして、弟子になることに反対した。このいきさつは、ショパンの手紙(師エルスネルや家族との手紙のやり取り)に見ることができる。しかし、カルクブレンナーは、ショパンが弟子になることを丁重に断った後も、ショパンの才能を正しく評価し、プレイエルのホールを使えるように準備する等、デビュー演奏会に力を尽くしたとするのが一般的な説であった。先に述べたエーゲルディンゲルの説は、演奏会プログラム等の資料、ショパンの手紙、さらにメンデルスゾーンの手紙から検証して導いた結果である。そして、このデビュー演奏会の入場料が、カルクブレンナーによって、10フランという、オペラ座公演より高価な価格に設定されたため、当日の聴衆が少なくて、実入りが無かったことは、多くの資料に語られている。このことは、エーゲルディンゲルの説もあり得ると考えられる。カルクブレンナーの嫉妬と邪魔が事実であったとしても、また、たとえ彼が失敗を目論んだとしても、結果的にはこのデビュー演奏会は成功し、パリにおけるショパンの以後の活動を決定付けることになった。
1832-33年の冬には、既にショパンのパリでの地盤は固まっていたようである。すなわち、1833年1月、ショパンがジェヴァノフスキに宛てた手紙には「僕は最高の社交界に出入りしています。大使、公爵、大臣たちの間にすわるのです。僕は自分をとくに売り込むようなことはしなかったのに、どんな不思議が起こったのでしょう」(河合2001:57)とある。では、デビュー演奏会からここに至るまでの間、つまり、1年足らずの間に、物事は彼にとって順調に上向いていたのであろうか。それとも、しばしば伝記で語られているように、演奏会もできず、弟子もいなくなり、精神的に不安定になり、アメリカへの移住まで考えていたのであろうか。あるいは、そうした事態に立ち至ったある日、ショパンは街でばったりラジヴィウ公に会い、ロスチャイルドの夜会に誘われて一夜にして人気者になったのであろうか。ショパンが一度どん底に落ちた、という説が出てきたのは、おおむね次の2点が根拠になっていると思われる。
- 〔1〕
- パリにコレラが大流行したり、政治的暴動が起こったりしたことにより、以下のような状況が生まれたこと。
a. 1832年春、アントニ・オルウォフスキ(ワルシャワでショパンの師エルスネルのクラスの同級生)が、パリからワルシャワの自分の家族に宛てた手紙の記述、「...ここ二・三日 彼[ショパン]は非常に憂うつになっています...ホームシックです。」「パリは悪い状態です。芸術家たちはたいへんな困りようです。コレラが原因で金持ちたちはいなかに逃げて行きました。」(へドレイ1965:156)
b. パリに一緒に来るはずだったワルシャワのヨゼフ・ノヴァコフスキに宛てて、ショパンが書いた1832年4月15日付の手紙、「ここで弟子をとることは非常に難しく、演奏会を開くのはもっと困難です」(マレック&ゴードン=スミス1981:115)。
c. ポーランドからの亡命者に、コレラの流行や政治的な暴動を避けて、アメリカへ移住する人が多数いたこと。 - 〔2〕
- ショパンは、1832年3月13日に、パリ音楽院演奏協会へ出演許可願いを提出したが、それが却下されたこと。
まず1点目から詳述すると、パリにコレラが大流行したり政治的な暴動が起こったりしたことにより、パリの社会状況が良くなかったことは事実である。しかし、オルウォフスキがワルシャワの家族宛に書いた1832年11月の手紙には、「彼は今流行の中心にいる。もうじき世の中にはショパン風手袋なんてものが現れるに違いない。もっとも時々ホームシックに悩まされてはいますが」(スモレンスカ=ジェリンスカ2001:149)と、記述されている。ここから明らかとなることは、パリにおいてショパンの人気が非常に高まったこと、ショパン自身は望郷の念にさいなまれていたことである。したがって、ホームシックを直ちにどん底状態、つまり、生活上の困窮と芸術活動の停滞に結び付けることはできないであろう。この手紙の日付に関して、英語版の翻訳者へドレイは[一八三四年]と記しているが、鍵括弧( [ ] )の記号で付されているので、ヘドレイが推察補足したものである。ヘドレイ編の書簡集では、明確な日付に対してはそのまま記し、推測に基づいて補足した場合は鍵括弧を加えている(注1)。したがって、スモレンスカ=ジェリンスカ2001に記載されている日付、「1832年11月」の方が、確度が高いと思われる。そうなると、既にこの時期に、ショパンのパリでの地位が、流行の前触れを予感させるほど固まっていたことになる。資金面で苦しかったことは事実である。しかし、父ミコワイは、パリで身を固めるまで、費用が必要なのは当然のこととして援助をしていた。さらに、母も家族に内緒で送金していたようだ。姉ルドヴィカも、お金が要るようなら、こっそり私に知らせて、と手紙に書いている。全面的に家族の協力があったと考えられる。
アメリカ行きを考えていたという従来の説については、近年では、「根拠がない」と、否定的に見られている。例えば、マレック&ゴードン=スミス1981において、真実とは思えない、という記述が既に現れている。頻繁に交わされていた家族や友人との手紙等に、アメリカに関する言及が出てきていないことからみても、アメリカ行きを計画していたと考えることは難しいであろう。さらに、ショパンはこの時期に、既に出版社との契約が成立しており、それなりの収入があったと考えられる。また、契約という希望にあふれた事実が、芸術の都パリに強く彼の心を惹きつけたことであろう。スモレンスカ=ジェリンスカ2001によると、
「ショパンは、1832年夏には、パリ有数の出版社シュレザンジェ[シュレジンガー]と全作品を刊行するという契約に署名。同時に、このフランスの書店と共同出版の形で、冬以降ライプツィヒではプロープスト社から(ほどなくこれは有名なブライトコップフに引き継がれる)、そしてロンドンではウェッセル社から(ショパンの全作品が)発行されることになった」(スモレンスカ=ジェリンスカ2001:149)
ということである。このことは、1832年6月28日付の父からショパンに宛てた手紙に、シュレジンガーは「約束を守って、作品に支払ってくれていますか」(ヘドレイ1965:157)と触れられていることから確認できる。ショパンの父への返事は明らかになっていない(注2)。ショパンの作品は、この時期から、独、仏、英の3国からほぼ同時に初版が出版された。実際、作品6以降の作品が、独、仏、英の3国から、1832年より順次出版されている(出版に関する詳細は、岡部2001:8-12を参照)。このことも、ショパンがアメリカへの移住を考えていたことを否定する事実となるであろう。
次に2点目であるが、拙論第2章で見たように、パリ音楽院演奏協会は社会的権威のあるもので、演奏会に出演すれば、その権威に認められた演奏家ということになる。ショパンの出演願いに対しては、その左上方に「出願願い/到着遅し」と記入されている(エーゲルディンゲル2007:202写真掲載)。この時、すでにショパンは無名ではなかった。デビュー演奏会の協力者を見ても分かるように、パリ音楽院、あるいはパリ音楽院演奏協会に良く知られていたはずである。そのために「出演の出願が遅すぎる」ということになったのかもしれない。パリ音楽院演奏協会の主催ではないが、ショパンは1832年5月20日に、パリ音楽院での慈善演奏会に出演している。
最後に、街で偶然ラジヴィウ公に会い、一夜にして人気者になったという説であるが、ラジヴィウ公とは、オペラ・ファンのヴァレンティ・ラジヴィウ公のことであり、彼は、ポーランドの有名な貴族で、ショパンに援助を申し出たポズナン大公国総督アントンの弟でもある。ショパンがパリに着いた当初、あらゆる機会を見つけてオペラを見に案内してくれた。もしショパンが窮地に追い込まれていたとしたら、街で偶然会うまでショパンを放っておいたであろうか。ただし、この間にラジヴィウ公自身がパリから離れていた可能性等を明らかにすることができなかったので、調査の必要があり、今後の課題である。
以上のことを考え併せると、伝記で語られている「ショパンがどん底に落ちていた」というのは、おそらく事実ではなかったであろうと推察される。
ショパンのパリ生活では、彼の社会背景を構成するもう一つ重要な要素がある。それは、ショパンのデビュー演奏会の時、聴衆に名を連ねていたポーラドから来た人たちである。
ポーランドでは、1830年のワルシャワ蜂起後、翌年の2月に、貴族アダム・チャルトルィスキを首班とする国民政府が樹立した。しかし、ロシア軍の反攻が始まり、各地で戦闘の末、9月7日にワルシャワは占拠され、蜂起は失敗に終わった。この後、ロシアの追及を恐れて、パリには多数のポーランド人亡命者たちが逃げのびて来た。ショパンがパリに到着したのが9月半ばだったので、ちょうど時を同じくして、一国を代表する政治家、貴族、学者、芸術家たちがパリに来たことになる。その中にはショパンと親しかった人も多数いた。パリではアダム・チャルトルィスキ公が中心となり、多岐に渡る活動を展開した。パリはポーランド人の避難所であるとともに、ポーランド文化の首都としても機能した。1832年に「ポーランド文芸協会」が発足した際に、ショパンは入会が認められ、1833年1月16日付のポーランド文芸協会宛の手紙に、選挙で会員に選ばれ、入会が許可されたことの感謝を述べている。ショパンは、チャルトルィスキ家と同様にポーランドから亡命して来たプラテル伯爵家にも出入りして知己を広げた。後に、マルツェリーナ・チャルトルィスカ公爵夫人(旧姓ラジヴィウ)は、パリのポーランド亡命社会の中心となったランベール館で、音楽サロンを催した。彼女はラジヴィウ家の公女として生まれ、アダム・チャルトルィスキの息子アレクサンドルと結婚、ショパンの弟子でもあり、ショパンの奏法をそのまま受け継いだと言われている。
亡命ポーランド人の一人ユリウシュ・スォヴァツキが自分の母に書いた1832年9月3日付の手紙では、私邸の社交的な集いについて報告している。
「...プラーター[プラテル]での晩餐会の間に、かれのとこでの芸術家たちの集まりの夜会に招かれていましたので、ちょっと立ちよりました。男ばかりのパーティーでした。有名なピアニスト、ショパンがひいてくれましたし、...一言でいえば、愉快な夜会でした。
二、三日あとでストラシュウィッツが同じようなパーティーを開きましたが、月並なもので、...パーティーは十時から午前二時までかかって死ぬほど退屈でした。ところがパーティーが終わる前にショパンがほろ酔いきげんで、実に精妙な音楽をピアノで即興演奏しました」(ヘドレイ1965:159)
この手紙からは、9月初めの時点で、ショパンが私邸に招かれて演奏していたことが伺える。このことは、前章で検討した、ショパンがどん底に落ちていたという説を否定する根拠の補強となるであろう。
スモレンスカ=ジェリンスカによると、ショパンが収入確保のために始めたピアノの個人教授は、まず、ポーランド人貴族のプラテル家とコマール家だった。コマール家では三人の娘に教えたが、その長女が、結婚してパリの重要な音楽サロンの女主人(salonnière)となるデルフィナ・ポトツカだった。彼女は、1832年から離婚する1843年まで、常時パリで暮らしていた。このデルフィナを崇拝していたド・フラオー伯爵を通じて、ショパンは教師としてフランスの貴族社会に入っていった。パリ貴族社会で最上級のヴォーデモン公爵夫人、ノワイユ公爵家、国王の側近ド・ペルチュイ家、エステルハージ伯爵、ロートシルド[ロスチャイルド]男爵らが、自分のため、また妻や娘のために、この傑出した教師を雇う栄誉を得ようとした。ショパンのレッスン料が1時間20フランということを定めたのはプラテル家とチャルトルィスキ家であり、その高額なレッスン料が、むしろすばらしい宣伝になった(スモレンスカ=ジェリンスカ2001:167)。ロスチャイルド男爵夫人がパリでの弟子の第1号だったという説もある。「ロスチャイルド家の夜会に出て一夜にして人気者に」という話から出てきたようにも思えるが、事実は不明である。いずれにしても、ポーランドからの亡命者たちによる共同社会の存在が、ショパンのパリでの成功の背景にあったと言えるであろう。
1834年には、ロシア皇帝が「ポーランド王」として、「フランス領内に滞在中のすべてのポーランド人は、旅券延長手続きのためロシア大使館に出頭すべきこと、もしこれを怠った場合、その者は政治亡命者と認定され、そのことはさまざまな重大な結果を招く可能性がある」という命令を下した。これについては父ミコワイがショパンに宛てた9月7日付の手紙の中で、「...お前は騒動が起こる前に旅立って、それには関係がないから、大使館へ行ってこのことについて尋ねるようにしてほしいと思う。わたしはお前が亡命者で不注意な連中のなかの一人に数えられないように希望しています。間違いなくこのことはしておくように、結果は知らせてください。」(ヘドレイ1965:174)と言ったにもかかわらず、出頭せずに亡命者であることを選択した。さらに、ショパンが高い評判を得ると、ロシアはショパンを獲得しようと、「ロシア皇帝付き主席ピアニスト」という身分を提供するが、ショパンは応じなかったという(河合2001:90)。ショパンは、パリのポーランド人亡命社会の中で生きることを選択したのである。
4.まとめ
拙論では、ショパンがなぜパリへ向かったのか、そして、今まで不明なことが多かったパリ到着の当初について、パリではどのように受け入れられていったのかを中心に見てきた。その結果、以下のことが明らかになった。
- 1.
- ウィーン滞在中にワルシャワ蜂起が起こり、ウィーンで活動できなくなったショパンは、主に身の安全のために、パリを目指す決心をしたこと。
- 2.
- パリに着いた直後、ウィーンから携えてきた僅かな紹介状の中で、マルファッティからパエールに宛てた紹介状が、その後のショパンのパリにおける活動を決定付けたこと。
- 3.
- さらにパエールが紹介したケルビーニ、バイヨ、ロッシーニ、カルクブレンナーという当時のパリ音楽界の中心人物の協力により、ショパンのパリ・デビュー演奏会が成功し、ショパンの名前がパリ中に知られたこと。
- 4.
- デビュー演奏会後、最高の社交界に出入りするようになるまでの間、困窮してアメリカ移住まで考えたという伝記で語られている話は、事実では無かったであろうこと。
- 5.
- パリにはポーランドから貴族・知識人層を中心に多数の亡命者が来ており、ポーランド文化の中心地となり、ショパンもその亡命社会に支えられたこと。
- 6.
- ポーランド亡命社会の貴族、ならびに音楽サロンを通じて知遇を得たパリの最上級の貴族たちが、競って、ショパンをピアノ教師として迎えるようになったこと。
パリでの当初、声楽優位の伝統の中で、ショパンは、故郷の師エルスネルにもオペラを書くことを勧められたが、1831年12月14日付の師へ宛てた手紙にもあるように、「ピアニストとして世の中に出る」と、既に決めていた。それでもエルスネルは諦めきれず、1832年11月13日の手紙、さらには1834年9月14日の手紙にも、オペラの作曲を期待する文面が見られる。しかし、ショパンはオペラ作曲家という選択をしなかった。
1831年以降、パリは、商業主義、文化的流行現象、社会活動における自由競争の場となった。1831年にパリで、ヴァイオリンのパガニーニが、ヴィルトゥオーゾ(卓越した技巧の演奏家)として成功をおさめて以来、多くのピアノ奏者兼作曲家たちがパリにやってきて、華やかな技巧を競い合った。中でも、タールベルク、リスト、ショパンが抜きん出ていたが、ショパンは、リストやタールベルクほどには公開演奏をしなかった。華々しい演奏活動を好まなかったからである。1833年1月第2週にドミニク・ジェヴァノフスキに宛てて書いた手紙に、ショパンは、「君がイギリスやオーストリアの大使館で演奏すれば、たちまちもっと優れた才能が君にあることになるのだ。ヴォデモン公爵夫人が君のパトロンになれば、たちまち君はもっとすばらしい演奏家ということになるのだ」(ヘドレイ1965:162)と書いている。ショパンはパリ到着後、早い時期に、演奏会での名声のほかに、上流社会や社交界で認められる栄誉が何よりも大切だということを、理解していたようである。
父から受け継いだフランス人の血、幼い頃から貴族の館に出入りして自然に身に付いていた貴族風の身のこなし、知識人との交流から得た知識の数々、人柄の魅力、機知にあふれた会話、非の打ちどころない礼儀作法により、ショパンは難なくパリの上流社会に入ることができたに違いない。しかも、本人自ら、社交界で頂点にいられるように常に努力をしていた。
パリでは、プレイエル社のピアノと出会い、ショパンは、この響きを最大限に使って表現の幅を広げた。そして、イタリア・オペラとの出会いが、ショパンのベル・カント奏法を生み出した。ちょうど音楽サロンが盛んになったパリ、各地からピアニストが多数集まってきたパリ、貴族たちが競って売れっ子ピアニストを自分や妻や子供のために雇ったパリだったからこそ、ショパンという、生涯にわたって、ほぼピアノ曲の作曲に専念できた特別な音楽家が生まれたのであろう。
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