論文:ショパンとパリの音楽界 1/岡部 玲子先生
In this study, it was investigated based on various documents by using the names appearing in Chopin's letters as a clue, why Chopin went from Vienna to Paris, and how he was accepted in Paris.
As a result, the followings were clarified:
- (1)
- Chopin went to Paris at his own will for personal security.
- (2)
- Chopin was able to start his activities in Paris thanks to the letter of introduction from Malfatti of Vienna to Paer.
- (3)
- Chopin's debut concert in Paris was successful through the cooperation of musicians introduced by Paer, and the name of Chopin became widely known all over Paris.
- (4)
- It has been often said that Chopin considered emigrating to America due to poverty, but it is perhaps not a fact.
- (5)
- Chopin was supported by the Polish exile society in Paris.
- (6)
- Perhaps, through the nobles in Polish exile society and the music salons in Paris, Chopin moved in the polite society of Paris.
1.はじめに
「春~愛とエスプリの音楽~」
ショパン:ワルツ作品34-3、 ノクターン遺作 嬰ハ短調、 ロンド作品1
サティ:1916年の3つの歌
2008年3月29日(土) 3:00-4:30 p.m.
スタインウェイルーム(つくばコミュニケーションプラザ内)
ポーランドで生まれ育ったショパン(1810-49)が、パリで社交界(音楽サロン)の寵児となったことは、よく知られている。しかし、そこに至る経緯、特にパリに到着した当初については、不明なことが多くあり、いまだ十分に解明されていない。そこで拙論では、ショパンがなぜパリへ向かったのか、そして、パリではどのように受け入れられていったのかを中心に、論究していきたいが、その手法としては、ショパンの手紙に現れる人名を手がかりとして、論じていくことになる。(注)
(注) 論者は、2008年3月29日(土)に、フランス音楽研究会の仲間達と、コンサート『サロン"Carrefour"(芸術と芸術家の交差点)「春~愛とエスプリの音楽」』(表1)を開催した。その準備に際して、演奏のために曲の背景を調べていくうちに、音楽・美術・文学の様々な芸術家の交流、すなわち、ラヴェル作曲「博物誌」をめぐって、ルナール(原作者)とロートレック(挿絵)、ボナール(挿絵)の交流、その交差点的役割をしていた「白雑誌」、ショパンとサンド、そしてショパンとサンドとドラクロワとの交流、ドラクロワが描いたショパンとサンドの絵、等々が重大な役割をなしていることが浮上してきた。これらの人物の交流の中から、ショパンとドラクロワの関わりが明らかとなり、その関わりを探っていくうちに、広範囲の検討が必要となることが判明した。したがって、差し当たっては、何故パリへ行ったかというショパンの意識と、パリにおける当初の状況に問題を絞ったうえで、論点を、ショパンがパリの音楽界に受け入れられるまでの範囲にとどめることとした。
2.1830年代から40年代にかけてのパリ音楽界の状況
パリでは、シャルル10世下に首相として反動政策を行ったポリニャックの弾圧に対して、民衆が蜂起し、1830年に七月革命が起こった。その結果、ブルボン家に代わって、オルレアン家のルイ=フィリップの立憲的な「七月王政」(1830-48年)が成立した。ルイ=フィリップは、議会政治を実現したが、制限選挙制であったため、上層ブルジョワジーの利益が代表され、典型的なブルジョワ支配体制となった。労働者階級には不満が増大し、社会主義の思想と組織の確立を促すこととなった。だが、実はこの体制下におけるブルジョワたちが、パリに繁栄をもたらし、音楽家たちの活動を支えたのである。
フランスの作曲家や聴衆は、何世紀もの間、音楽を独立した形の芸術とは考えていなかった。むしろ、それを主に言葉や舞台演技、公的な式典や宗教的儀式と結びついた従属的な芸術と見なしていた。すなわち、独立した純粋な器楽音楽は発達しておらず、器楽は声楽や儀式に付随するものと考えられていた。Charlton;Trevitt;Gosselin 2001 では、1789~1870年のパリの音楽界を、1.宗教音楽機関、2.パトロン、3.オペラ団体、劇場、4.演奏会活動、5.教育、6.音楽批評、出版、楽器製造、の6項目に分けて解説している。この中で、5.と6.に関しては解説が僅かで、5.にはショパンに直接関わりがあると考えられる記述が見あたらない。6.は、主に雑誌名や楽器製造会社名を挙げるにとどまっている。したがって、ここでは以下のように 1.~4. の4項目を取り上げ、必要に応じて5.と6.に関わることに触れながら、1830年代から40年代の当地の音楽事情を検討していく。
1. 宗教音楽機関:宮廷礼拝堂は、過去には1792年に閉鎖、その10年後にナポレオンにより再興されたが、1830年の七月革命で再び閉鎖された。次に再興されたのは、ナポレオン三世の時、つまり1852年以降となるので、ショパンがパリで過ごした30年代および40年代は閉鎖されていたことになる。パリは特権的な司教区であったが、資金不足のため、19世紀半ば以前には、目立った音楽活動はほとんどされていなかった。したがって、宗教機関における音楽家の活動は、ほとんどなかったと考えられる。ショパンも同様である。
2. パトロン:フランス革命により貴族やブルジョワ階級の音楽擁護の活動は一時停滞したが、ナポレオンの亡命貴族に対する恩赦で個人的パトロンが早期に復活した。すなわち、18世紀の音楽サロンが、19世紀にも引き続き活動することとなった。新しい社会の到来とともに、新興の市民階級によって築かれた富が、パリをかつてない繁栄に導いた。彼らも、貴族たちと同様に、売れっ子ピアニストを高給教師として雇う状況が生まれた。このような状況下で、ショパンも1回20フランで1日に8-9人もの生徒にピアノを教えた。さらに、裕福な出版社は、お気に入りの作曲家の作品を出版することにより、楽器製造会社は楽器の改良に努めて新しい楽器を提供することにより、パトロンの役割を果たした。
3. オペラ団体、劇場:伝統的にオペラ・ハウスが優位であり、当時の作曲家の多くは、パリでオペラを書くことに関心を寄せていた。1830-31年の間に、少なくとも16の劇場が演目のなかで定期的に音楽を用いていた。最も権威のあるオペラ座では、アブネック[Habeneck, François-Antoine 1781-1849]が、1821年から1846年まで監督・指揮を歴任した。アブネックのパリ音楽界における影響力や地位は他に並ぶものがなく、特に晩年の20年間には絶大な権力を誇っていた。ちょうど、ショパンがパリで過ごしていた時期である。
4. 演奏会活動:演奏会には劇場を使用するのが一般的であったが、1811年に、本格的なコンサートホールが、パリ音楽院に開設された。パリ音楽院のオーケストラは、その頃では珍しく、常任指揮者がいて、入念なリハーサルをする優れたオーケストラであった。1828年2月に、アブネックがパリ音楽院演奏協会を設立、この協会が主催して、公式に新しいコンサートシリーズが開始された。この演奏協会は、芸術大臣らの許可を得た社会的権威のあるものである。アブネックの最大の功績は、ベートーヴェンの音楽をフランスに紹介したことにある。その他、パリ音楽院演奏協会の活動に刺激されて、1820年代後半から30年代前半には様々な演奏会シリーズが起こったが、いずれも短命に終わった。
「2.パトロン」の中で記述されている「音楽サロン」であるが、サロン(注)とは、宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界のことである。フランスの宮廷に起源を持ち、主人が、文化人、学者、作家らを招いて、上流階級の人々や芸術家などが集まり、交遊する場であった。知的で洗練された会話や振る舞いが必要であった。ベーチ2005によると、18世紀後半以降のサロン文化は、突然ふたつの異なった道に分かれて歩み始めた。ドイツ、オーストリア、イギリスでは、フランスにならって文学サロンが活気づく一方で、フランスでは音楽サロンが重要な存在となった。音楽サロンの発展は、フランス革命がある意味原動力となり、19世紀のとくに重要な音楽サロンはパリにあったという。そして、そのすべてに結び付く名前がショパンである、と述べている(ベーチ2005:25-30)。すなわち、文学サロンにおける言葉による発言は、当局による取締りの危険を伴ったが、音楽サロンではその心配が無かったため、フランス革命後のパリで発展したということである。ショパンがパリに居た当時、パリで認められるためには、公開演奏会以上に音楽サロンに呼ばれること、それも名のある音楽サロンに迎え入れられることが必須となっていた。ショパンは、ポトツカ夫人、マリー・ダグー夫人、マリー・プレイエル等、数多くのサロンに出入りしていた。