第01回 オーストラリアざっくり音楽史(1)
ときは18世紀後半、ヨーロッパでは古典派音楽の真っ盛り、モーツァルトがピアノ協奏曲26番「戴冠式」を書いたその年に、南半球に広がる大陸「terra australis」(南の土地)は、イギリスからやってきた船団により植民地となりました。場所は現在のシドニー。1788年、最初の政府が誕生しました。
ご存知の方も多いかと思いますが、この南の大陸は、最初はイギリスからの流刑の地でした。囚人と守備隊の生活ですから、最初の20年間はほぼこの地に「音楽」と言えるものはありませんでした*。
19世紀に入るころには、海軍や囚人ではない移民たちによって、少しずつ楽器が入り込んできました。軍楽隊が組まれ、兵舎や船上で吹奏楽やダンス音楽などが奏でられるようになります。ところで、ここからおよそ50年後に、日本でも文明開化を向かえ西洋音楽が入り始めます。やはり始まりは、軍楽隊からでした。日豪における西洋音楽の広がりが、ともに「軍楽」から波及していることは興味深いことです。音楽がその発生の地から切り離されて輸出入されるとき、政治の力が大きいことが伺えます。
*先住民族アボリジニの文化については別ですが、ここでは対象としていません。
さて、時はすでに19世紀。まだオーストラリアはイギリスの植民地です。1814年にやっと呼び名が「オーストラリア」とされました。1826年には、シドニーのホテルで最初の公開コンサートが開かれます。奏者は軍楽隊メンバーや地域の音楽教師とその生徒によるアマチュア集団。これは当時の政治的トップの位置にあったラルフ・ダーリンという総督が、ずいぶんと音楽活動に力を注いだことによります。1825年にはジョン・エドワーズという人が初の音楽専門店をシドニーで開業し、ピアノ販売を始めました。この人はまたセント・ジェームス教会(27年にオルガン設置)で聖歌隊を結成したり、1833年には初の小さなオーケストラを結成するなど精力的な活動を見せた人物です。
では、オーストラリア初の音楽家と呼べる人物はいつ頃の、どんな人物だったのでしょうか。ヴィンセント・ウォラスという人物がその一人です。彼はアイルランドに生まれ、1835年、33歳のときにオーストラリアにやって来ました。ヴァイオリニストであり作曲家であった彼は「オーストラリア移住者初の音楽的逸材」とみなされ、「オーストラリアのパガニーニ」とまで呼ばれます。しかし、音楽専門店のビジネスに手を初めると、借金が苦しくなり、妻と息子を捨てて、オーストラリアを飛び出してしまいます。移住後、たった4年後のことです!ウォラスはその後欧米で音楽活動を続けていますが、最初の逸材をほんの4年で失ったオーストラリア・・・。なんだかちょっと寂しいですね。
しかし、ここにもう一人。このイギリス植民地時代に活躍した音楽家といえば、アイザック・ネイサンがいます。彼はイギリスでオペレッタや歌曲の作曲で活躍していましたが、パトロンを失うなどの理由で生活が苦しくなっていました。1841年、49歳のときに彼はオーストラリアへと渡りました。移住先のシドニーで、作曲、演奏、出版業で活躍し、オーストラリアで最初期のオペラ「オーストリアのドン・ジョン」(オーストラリアではないんです!)等を書いています。またネイサンは、先住民族アボリジニの音楽を始めて西洋音楽に取り入れる試みも行っています(とはいっても、これは非常にヨーロッパ音楽調に仕立てられたものではありますが)。1864年、71歳でその生涯を閉じるまでシドニーに定住し、音楽家として活動しました。
生計が苦しくなって植民地オーストラリアを立ち去ったウォラス、本国イギリスでの生活苦から逃れて成功したネイサン。オーストラリア西洋音楽の幕開には、こうしたドラマティックな人生をおくった二人の音楽家が関わっていたのです。
19世紀後半はまさに、オーストラリアが一歩また一歩と着実に、かつ急速に発展していく時代です。メルボルン、アデレード、パースなどの主要都市が設立され、1851年にニュー・サウス・ウェールズで金が発見されると人口は激増し、89年の段階では300万人に到達します。こうした流れと共に音楽文化の基盤も作られていきます。蒸気船の出現により、ヨーロッパから著名な音楽家が演奏旅行でオーストラリアを訪れるようになります。また当時イギリスの音楽文化の主流であった合唱団が、オーストラリアの各都市でも次々と誕生しはじめました。
次回連載では、独立国家オーストラリア連邦の誕生の20世紀、いよいよこの国の音楽シーンが花開く模様についてお伝えしたいと思います。
音楽ライター、翻訳家。1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科修士課程修了。マッコーリー大学院翻訳通訳修了。ピティナ「みんなのブルグミュラー」連載中。