ピアノステージ

Vol.13-1 Stage+人(13) 舘野 泉さん

2010/09/14
舘野 泉さん Stage+人(13) 舘野泉 演奏活動50周年を迎えたピアニスト「音楽人生を語る」
主に北欧フィンランドを拠点に演奏活動をされて、今年演奏活動50周年を迎えられる舘野泉さん。今から8年前、演奏会のステージの上で脳溢血で倒れられて、右半身不随に。しかしその後、左手のピアニストとして、奇跡的な復活を成し遂げ、音楽に新境地を開かれえた舘野さんに、「音楽人生」を語っていただいた。
2002年突然の出来事と新たな音楽の誕生
─ まず、その2002年の出来事についてお伺いしたいと思います。リサイタルの最中に突然脳溢血の発作に襲われたということですが、どのような状況だったのでしょうか?

 2002年1月9日、フィンランドで2番目に大きい「タンペレ」という街で開いた演奏会でした。最後の曲を弾いていて、あと2分ほどで終わりになるというところかな、急に右手が遅れ出しておかしいなと思ったのです。そのまま右手はどんどん遅れ、最後には止まってしまって、左手だけ動いている状態。困ったなあと思いながら、左手だけでとにかく終わりまで弾きました。そのあと立ち上がってお辞儀をして4、5歩歩いたところでそのまま倒れてしまったんですね。15分後にくらいに救急車で病院に運ばれて行ったと聞きました。

─ まさに突然の出来事だったと思います。それからしばらく2ヶ月程でしょうか、入院をされてその間右手が動かないとわかった時というのは、どのような心境だったのでしょうか。

 「さぞ、つらかったでしょうね。右手が動かなくてショックだったでしょうね」とかいろんな事を言われましたが、本当はそんなことなかったんですよ。そうなってしまったものは仕方がないなと自分はあっけらかんとしていたんです。入院して最初の一ヶ月は、意識も朦朧としていたし、言葉も出なかったし、歩けなかった。ずっとベッドに寝たきり状態だったんですね。それで後の一ヶ月は回復患者のリハビリをやりながら病棟を移され、その頃から少しずつはっきりしていったんです。
 「弾けなくなってしまった」というようなはっきりした認識も、もしかしたら無かったのかなと思いますが、それでも発病してから1年半ぐらい全くピアノを弾けない状態でしたから、弾きたいという気持ちが常にあったんでしょうね。2ヶ月後、退院して一番先に座ったのはピアノの前なんですよ。でも全然動かなかった。それでも半年も我慢すれば段々回復して元通りになるかなと楽天的に考えていた。ところが、全然ダメ。毎日1時間ぐらいはピアノに向かって、右手を何とか動かそうとしていました。でも、1年経っても1年半経っても何も変わらない。そのうちに疲れて、何もやらなくなりました。

ピティナ・ピアノ指導セミナーにて(2010年4月18日東邦音楽大学)
ピティナ・ピアノ指導セミナーにて(2010年4月18日東邦音楽大学)
─ そんな折に、転機のきっかけを作って下さったのが先生のご長男だそうですね。

 息子は4年間シカゴに留学してヴァイオリンを勉強していたのですが、その留学を終えてフィンランドに帰ってきたんですね。その時のおみやげで、フランク・ブリッジの「3つのインプロヴィゼーション」という左手の曲を持ってきてくれました。ブリッジの作品はいくつも弾いた事があって、興味ある作曲家だったので、誰もいない時にその曲を弾いてみたんですよ。その楽譜に触れた途端に、僕の中で何かが変わっていったのだと思います。これはつまり、音楽なのだから、何も手が2本無くたっていいんだと思った。だから1本だってちゃんと弾けている。音楽になっている。逆に言うと、手が3本あったっていいんですよ。やってる事は音楽なんだから。手の数というのは別に問題じゃないと思ったんですよ。その事に気がついて、これでやって行けるんだという思いにぱっと切り替わっていった。
 その翌々日にヘルシンキから作曲家の間宮芳生先生にFAXを送ったんですよ。『1年後に復帰の演奏会をやりたいけれど、左手のための曲が無いから、何か曲を書いて下さい』と。2日後に間宮先生から快諾の返事がきまして、これは僕から舘野さんへの復帰のお祝いだって言って下さったのです。

─ 復帰のリサイタルをされたのは、倒れられてから2年半後ですよね。「奇跡の復帰」というニュースが世界中を駆け巡りました。改めてステージに立たれて聴衆の前で演奏した時は、どのような心境だったのでしょう?

 「やっと俺は自分のいるべき所に帰ってきたんだな」と、そう思っただけ。でもやっぱり弾けるようになって嬉しくてね、復帰の演奏会をしてから1年ぐらいっていうのは、ただもう弾けることが嬉しいだけだった。その喜びだけで弾いていた感じでしたね。

ピアニスト舘野泉をかたちづくったもの
─ 私たちの音楽生活においても、様々な形の障害が降りかかってきますが、このような障害を乗り越え、復活の源泉となったものは何なのか、先生のこれまでの生き方や人生観を糸口にして、お話を伺えればと思います。

 僕の両親は音楽家でした。2人とも演奏活動もしていましたが、戦後は生徒を教える事に専念していました。当時はピアノを習う子供たちが多くて、1週間に100人ぐらい来ていましたね。そのような環境で育ったためでしょうね、僕たち兄弟は4人とも皆音楽家になった。それは音楽を特に勉強しているとか、志を立てるとか、そういうことではなく、自然に普段生活している身の回りに音楽があったから、音楽をやるのは普通の事だったんですね。両親の学校の友達がうちに来て、よく室内楽もやっていました。時代も大らかだったのでしょう、遊びの中に音楽がある、音楽の中に遊びがあると、そのような感じでした。

─ 芸大を卒業された後、約40年に渡ってフィンランドを活動拠点にされましたが、北欧を選んだ理由は何でしょうか?

 僕の母親が北海道の室蘭の育ちということもあり、北国に惹かれるところがありました。中学生の時に読んだ岩波少年文庫のマリア・ハムスンというノルウェーの作家の童話や、高校生で出会った、スウェーデンのラゲル・ロフという作家の物語など、北欧の文学が好きでしたね。慎ましくて貧しい生活の中でも、人間がしっかりと誇りを持って生きているというのかな、そんな姿に心を惹かれたのでしょう。通っていた高校のペンパル紹介制度でフィンランドの子と文通もしました。
 大学を出て2年後、半年間ヨーロッパに行く機会をいただき、ドイツ、フランス、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマークと周りました。その時にどういうわけか、フィンランドが一番気に入ったんですよ。一番心に合った。その2年後にしばらく日本を離れてみようと思った時には、フィンランドを目指していました。  周りの先生方や先輩やら、音楽仲間からは『なぜ北欧なの?』と驚かれましたが、僕は全然そう思わなかった。音楽をやるために北欧に行くという考えはなかったし、先生に就くという考えもなかった。僕は大学を卒業した時点で、このあとは先生に就くのではなく、自分で実際に演奏して、武者修行で鍛えられて色んな経験を積んでいけばいいと思っていました。だから強いて言えば、自分が憧れている静かな空間に身を置いて、適当に孤独を感じながら生活をしたかった、ということでしょうか。

「左手の文庫」活動
─ 好きな環境で、好きなことをする、自然体で生きていらっしゃった舘野先生だからこそ、人生の岐路に立たされたとき、ご自身の本当の気持ちにしっかりと向き合え、お力を発揮されることができたのではないかと思いました。
 さて、先生はデビュー当時から世界各地で日本人の作品を精力的に演奏されてきましたが、先生にとって邦人作品とはどのような存在でしょうか?

 大学を出た頃、僕は、『日本人は本当にヨーロッパのものが弾けるんだろうか?』なんてことを考えていました。今の時代ではそういう考え方はあまりないですが、当時としてはやはり異質な文化のものでしたから。卒業後2年目の自主リサイタルのとき、邦人作品だけの演奏会をしたことがあるんですよ。今同じ時代を生きている日本人の作曲家たちが作ってくれる作品を弾くのはとても面白いですし、身近に感じられます。僕は、フィンランドに行ってからも日本人の作品を出来るだけ弾くようしていました。現地のお客さんたちも喜んでくれましたしね。例えば三善晃先生のソナタなど随分弾いたんですよ。矢代秋雄先生のソナタも。

─ 今、日本人の作曲家が、先生のために数々の左手の作品を書いていらっしゃいますね。その素晴らしい数々の作品が先生の演奏活動を支えているのだと思います。両手のために書かれた作品と左手のために書かれた作品というのは、どんな違いがありますか?

 結局、手2本のために書こうが、1本のために書こうが、音楽としては同じ。その点何も変わりはないですよ。ただそれを実現する手段として、、左手だけで弾くといのはそれなりに難しいことがあるんだなということが演奏活動の中で徐々にわかってきました。とにかく広域にわたって片方の手だけを使うので、身体をねじったり、捻ったりが必要です。両手で弾くというのは、やはりバランスがとれているわけですよ。片方でそれを弾くことは、多少不自然、いや不安定と言えるかもしれません。常に体を移動させて、良いポジションを見つけ出すまでが大変です。

─ 『左手のピアニスト』として歴史的に名前があがる方はいらっしゃらないので、そういう意味でも、先生は大変画期的なことをされているなと思います。
 もう一つ『舘野泉 左手の文庫』という活動をされていると伺ったのですが、具体的にはどのような活動ですか?

 僕は左手で弾き始めて、まず最初に怖いと思ったのは「左手の作品」がないということでした。外国の楽譜出版社に全部あたりましたが、出版されている「左手の作品」は80曲くらいで、そのうち実際手に入ったのは20曲くらい。その20曲の中から、自分が是非リサイタルで取り上げたいと思ったのは5曲程度。そんな状態ですから、まず自分が弾いていけるものを探して行くために、作曲家に書いてもらうことが大事だと思いました。色んな方にお願いして書いて頂きましたが、委嘱料を個人で支払っていくのは大変なことです。というわけで、つまり募金ですね。左手のための作品の充実を図ることを目的に、始めました。呼びかけに応じて下さる方達はたくさんいて、一回一回は小さい額ですが、今までで400万円ちかく集まりました。いろんな方にお願いするのも大分楽になり、委嘱した作品が弾けるようになりました。」

─ では最後に今後の活動の抱負についてお聞かせ頂けますか?

 今年は演奏生活50周年のコンサートのために日本初となる左手ピアノによる室内楽作品が2曲生まれます。「舘野泉 左手の文庫」の助成による委嘱作品で日本人の作曲家にお願いしました。そして、将来は左手の作品だけで7夜。つまり7回のリサイタルをやろうかなと思っています。左手だけで弾けるということは、両方の手でも弾けるんですよ。そういう立派な作品がたくさん生まれてきているということを皆さんに知って頂くためにも7夜のシリーズをやります。それが夢かな。

企画 : ピティナ指導者検定委員会/インタビュー : 霜鳥 美和
舘野泉さん
舘野 泉 Izumi Tateno (ピアノ/Piano)
たてのいずみ◎1936年東京生まれ。60年東京芸術大学首席卒業。64年よりヘルシンキ在住。68年メシアンコンクール第2位。同年より、フィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授を務める。81年よりフィンランド政府の終身芸術家給与を得て、90年以降は演奏活動に専念。06年「シベリウス・メダル」授与。演奏会は世界各地で3000回以上、リリースされたCDは100枚にのぼる。人間味溢れ、豊かな叙情性をたたえる演奏は、世界中の幅広い層の聴衆から熱い支持を得ている。この純度の高い透明なる抒情を紡ぎだす孤高の鍵盤詩人は、02年脳溢血(脳出血)により右半身不随となるが、04年「左手のピアニスト」として復帰。その左手のために間宮芳生、ノルドグレン、林光、末吉保雄、吉松隆、谷川賢作等第一線で活躍する作曲家より作品が献呈される。命の水脈をたどるように取り組んだ作品は、静かに燃える愛情に裏打ちされ、聴く人の心に忘れがたい刻印を残す。06年「舘野泉左手の文庫(募金)」を設立。08年長年の音楽活動の顕著な功績に対し、旭日小綬章受章、および文化庁長官表彰受賞。エッセイ集「ひまわりの海」(求龍堂刊)、左手のコンチェルト(佼成出版社刊)、左手によるCDは、エイベックス・クラシックスより「風のしるし」など6枚リリース。南相馬市民文化会館(福島県)名誉館長、日本シベリウス協会会長、日本セヴラック協会顧問。
舘野泉公式HP http://www.izumi-tateno.com

コンサート情報
チラシ
◆ 舘野泉演奏生活50周年記念公演

・2010年9月17日(金)18:30~ 妙高市文化ホール大ホール(新潟)
・2010年9月19日(日)14:00~ びわ湖ホール 大ホール(兵庫)
・2010年9月26日(日)14:00~ 小海・ヤルヴィホール(長野)
・2010年10月22日(金) 札幌コンサートホールリサイタルホール
・2010年10月26日(火) 福岡銀行本店ホール
・2010年11月03日(水・祝) 藤沢リラホール(神奈川)
・2010年11月10日(水) 東京オペラシティコンサートホール 
・2010年11月20日(土) 八ヶ岳高原音楽堂(長野)
・2011年2月06日(日) いずみホール(大阪) ほか

◆ CD情報

・舘野泉:記憶樹 AVCl-25713 10月20日発売予定(エイベックス・クラシックス)
 収録曲:coba/記憶樹、エスカンデ/ディヴェルティメントほか。
 ※2010年8月録音予定
・舘野泉:EMI Recordings Complete BOX
 ※CD24枚組(2010年10月20日発売予定)
・舘野泉:EMI Recordings Self Selection
 ※CD1枚(2010年10月20日発売予定)


ピティナ編集部
【GoogleAdsense】
ホーム > ピアノステージ > > Vol.13-1 S...