脳と身体の教科書

第19回 音色を変える技術

2011/12/07
音色を変える技術

タッチを変えるとピアノの音色は変わるでしょうか?読者の皆さんはピアノを弾かれる方ですから、もちろん音色は変わるとお考えだと思います。一方で、音響学者の中には、「ピアノの構造を考えると、ピアノの音色を変えることはできない」とおっしゃる方もいらっしゃいます。

ピアノというのは、鍵盤がある一定の位置より下がると、ハンマーはひとりでに弦に向かって動いていくため、ハンマーが弦と衝突する直前の動きを細かくコントロールすることはできません。したがって、ハンマーがひとりでに動き始める瞬間の鍵盤の速度が、ハンマーの速度、ひいてはハンマーが弦に衝突するエネルギーを決めます。この鍵盤の速度を速くすると、ハンマーも速く動くため、音量は大きくなりますが、それ以外にはハンマーの動きを操る術はピアノの構造上存在しないので、「音量が同じであれば、音色も一緒のはずだ」とおっしゃる方がいるわけです。

しかし、近年の音響学、心理学、脳科学の研究の結果、ピアノの音色を変えられることや、ピアノの音色を感じ取る脳の仕組みについて少しずつ明らかになってきました。

1.音色と雑音

ピアノの音色が本当に変わるとすると、何がピアノの音色を決めるのでしょうか?これについては、いくつか研究があるのですが、その中で近年注目を集めている「打鍵時に生じるノイズ(雑音)」との関連についてご紹介します。

鍵盤を叩くと、机を叩くときと同様、「バン」といった雑音(ノイズ)が鳴ります。これはピアノを弾いているときには、通常それだけで聴こえにくいものです。「バン」と叩くノイズのわずか0.1秒かそれ以下の時間の後に、実際のピアノの音が鳴るので、耳は2つの音を分離して聴かずに、「混ざった一つの音」として認識します。

オーストリアのGoebl博士らは、このノイズが音色に影響を及ぼすと考え、興味深い実験を行っています(1)。まず、鍵盤を叩くタッチと叩かずにそばから押さえるタッチで打鍵し、打鍵によるノイズがある音と無い音を2つ用意した後、それらを様々な人に聴いてもらいます。そして、2つの音の音色が同じか違うかを尋ねたところ、雑音の有無によって、音色の違いを聞き分けられることがわかりました。ノイズは単独として聞こえませんから、ノイズがピアノ音に混ざっているかそうでないかを、私たちの耳は検知できるということです。

次に、打鍵ノイズがあるピアノの音から、ノイズだけを取り除く特殊な処理を施した音を用意します。そして、元々ノイズの入っていない音との音色の違いを、様々な人に聴いてもらいます。すると、今度は2つの音色の違いを聞き分けることができませんでした。

これらの結果から、どうやら指先が鍵盤を叩くときに生まれるノイズが、ピアノの音色の知覚に影響を及ぼしていると言えます。さらに、私たちの研究の結果、このノイズがピアノ音に混ざることによって、音が硬く感じられることも明らかになりました(2)。よくレッスンで「鍵盤を叩いてはいけない」とか、「指先と鍵盤の間に空気を入れないように」とかおっしゃる先生がおられますが、実際に鍵盤を叩くことによってこのノイズは生まれますから、みなさんが経験的に感じられていることは正しいのです。

さらに、Goebl博士らはその後の研究で、鍵盤がピアノの底に衝突するときに生まれるノイズも、音色の違いに影響を及ぼすことを明らかにしました(3)。これらノイズの大きさは、指先の皮膚の厚みや、指先のどこで鍵盤に触れるか、筋肉をどれだけ固めるかなど、様々な要因によって変わり得るものです(4)。音色の違いに個人差があったり、鍵盤への触れ方で音色が変わる背景の一つに、こういった要因が関わっていると考えられます。

とはいえ、「音色を決めるのはノイズだけ」というのも寂しい話です。音色に影響を及ぼす他の要因について十分に知られていないということは、現代の科学(装置や解析方法)では明らかにできない現象がピアノにはまだまだ潜んでいることだと、私は考えています。今後のさらなる研究によって、音色を変える脳と身体のメカニズムが解明されていくことでしょう。

2.音色を感じ取る脳

そもそも、音色とは何でしょうか?同じ音量、同じピッチの2つの音の違いを聞き分けられるとき、その違いを生み出しているものが音色です。つまり、大きさもピッチも全く等しい2つの音を聴いて、その2つの音が「違う」と判断できる場合、その2つの音は「音色が違う」と言えるわけです。

例えば、音量もピッチも同じピアノとヴァイオリンの音を聴けば、音の違いは容易にわかりますよね。これが、音色の違いです。この時、物理的には、音の周波数や音の波の形などが、2つの音では異なります。

さて、異なる楽器のように、明らかに音色が違う場合に比べると、ピアノの音同士の音色の違いはクリアではありません。そのため、ピアニストの脳は、そのわずかな違いを聴き取りやすいように変化していることが知られています(5)

上記のピアノ音とヴァイオリン音を聴く場合、ピアノの訓練を積むと、ピアノの音を聴いたときの方が、ヴァイオリンの音を聴いたときよりも、音を感じ取る脳細胞は強く活動するようになります。一方で、ヴァイオリンの訓練を積むと、その逆で、ピアノの音よりもヴァイオリンの音によく強く反応するようになります。訓練によって、良く聴く音の表情を微細に感じられるように、脳が変化するのです。

これは言いかえると、必ずしも音楽家ではない聴衆の方の耳には、わずかな音色の違いは感じ取りにくい可能性があることを意味します。では、膨大な練習時間を費やしてわずかな音色を変化させることは、音色の差を感じられる、ごく限られた聴衆のためだけのものなのでしょうか?

これは、みなさんによく考えていただきたい問題です。私自身は、逆説的ですが、細やかな音色で彩られた演奏は、音色のわずかな差を判別するのが難しい聴き手の方のためにも大変有意義で素晴らしいものだと考えています。なぜならば、そういった経験の積み重ねによって、聴き手の方の"音を聴く脳の働き"が変化し得るからです。「何度も聴くうちに良さがわかってきた」という経験をみなさんもされたことがあるかもしれませんが、それもまた音楽という芸術を鑑賞する醍醐味の一つではないでしょうか。音色を自由自在に操る術を身につけるための練習は、聴き手の未来に新しい景色を届ける力があるのです。




(1)
Goebl W, Bresin R, and Galembo A (2005) Once again: The perception of piano touch and tone. Can touch audibly change piano sound independently of intensity? Proc ISMA
(2)
Furuya S, Altenmüller E, Katayose H, Kinoshita H (2010) Control of multi-joint arm movements for the manipulation of touch in keystroke by expert pianists. BMC Neurosci 11: 82
(3)
Goebl W and Fujinaga I (2008) Do key-bottom sounds distinguish piano tones Proc ICMPC
(4)
Kinoshita H, Furuya S, Aoki T, Altenmüller E (2007) Loudness control in pianists as exemplified in keystroke force measurements on different touches. J Acoust Soc Am 121(5 Pt1): 2959-69
(5)
Shahin AJ et al. (2008) Music training leads to the development of timbre-specific gamma band activity. Neuroimage 41(1): 113-22

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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