脳と身体の教科書

第17回 良い耳の仕組み (2)良い耳=良い脳

2011/07/12
良い耳の仕組み
(2) 良い耳=良い脳

ソルフェージュや専門的な音楽訓練を受けると、メロディや和声をより精緻に感じられるようになりますが、その裏では、脳の大きさや機能が変化していることが知られています。ここでは、良い耳を支える脳の仕組みについて、簡単にご紹介します。

音のピッチやメロディの処理を担う脳部位(聴覚野)の神経細胞は、音楽訓練を積むことで、①数が増える、②働きが良くなることが知られています(Schneider et al. 2002 Nat Neurosci)。その結果、音楽の持つ豊かな情報を、より正確に処理することができるようになります。また、聴覚野だけではなく、「脳幹」といって耳から入った情報を最初に処理する脳の部位でも、音楽訓練によって、聴いた音に対する反応が良くなります(Lee et al. 2009 J Neurosci)。さらに、音楽訓練を積んだ年数が長い人ほど、これらの神経細胞の反応が良いことが知られています。和音に関しても同様で、私たちは音楽を聴いているとき、無意識のうちに脳は和声を認識しているのですが、この和声を感じる脳の働きが、音楽の専門的な訓練を受けることによって向上することが知られています(Koelsch et al. 2002 Psychophysiology)。リズムはどうでしょうか?音楽のリズムを感じる役割を担っている脳部位の一つに、運動前野という領域があります。複雑なリズムの音楽を感じるときほど、この脳部位は強く活動するのですが、音楽訓練を積むと、運動前野に加えて、「前頭前野」という頭の前の方にある脳の部位も、リズムを処理するために使われ、結果、より複雑なリズムを認識することができると考えられています(Chen et al. 2008 J Cog Neurosci)。これらをまとめると、音楽の専門的な教育を受けたり、専門的な訓練を積むことによって聴覚機能が高くなる背景には、音を処理する脳の構造や機能の変化が隠されていると言えます。

(3)どのようにして良い耳を育むか?

良い耳を育むためには、7歳までの音感教育が重要だというお話を以前にしました。他には、どのようなことが有効なのでしょうか?脳科学の裏づけのある訓練方法として、例えば、Suzukiメソッドが、音を処理する脳機能の働きを促進することが実証されています(Fujioka et al. 2006 Brain)。また、音を聴くことで脳の働きが良くなるという訓練の効果は、訓練に使われた楽器の音にだけ起こることが知られています(Pantev et al. 2001 Neuroreport)。つまり、ピアノの音ばかり聴いていると、ピアノの音を処理する脳の働きは良くなりますが、ヴァイオリンの音を処理する時の脳の働きにはあまり変化は起こりません。したがって、様々な音の表情を感じ取りたければ、様々な楽器の音を聴くことが有効かもしれません。

良い耳を育むには、どれだけの量の訓練が必要なのでしょうか?シカゴのノースウエスタン大の研究グループはこの問いに対して、一つの興味深い研究結果を報告しています(Wright and Sabin 2007 Exp Brain Res)。彼女らは「音色を細かく感じ取る能力」と「リズムを細かく感じ取る能力」の2つの能力を高めるために、そのための訓練を毎日どの程度すれば良いかについて調べました。訓練というのは、音色やリズムのわずかに異なる2つの音や音列を聴かせ、それが同じか違うかを判断するというものです。これはレッスンでもよくされることですよね。例えば、生徒さんに先生が音色の異なる2つの音を鳴らして、「どちらの音の方が硬いか、わかる?」といったことを聞かれたり、あるいは「タータッタではなくてタータッッタ」などといった細かいリズムの違いを実際に弾いてみて理解してもらおうとすることがあるのではないでしょうか。

この研究の結果、音色の違いを感じ取る能力を高めるためには、少なくとも360回以上、毎日このトレーニングをする必要があることがわかりました。つまり、練習の途中でやめてしまっては、音色を聞き分ける繊細な耳を手に入れることはできないわけで、練習の「量」が大切だということになります。一方で、わずかなリズムの違いを感じ取る能力を高めるためには、毎日360回トレーニングすれば十分で、それ以上しても能力に変化はありませんでした。つまり、ある程度リズムを感じる訓練をやれば、それ以上やっても時間のムダと言えます。なぜ「360回」という数字なのかはさておき、この研究から言えることは、耳の能力の「何」を高めるかによって、どの程度の量の訓練を積めば良いのかは違うということです。和声の違いやポリフォニーのバランスを聞き分けるなど、他の耳の能力の場合はどうなのか、今後の研究で明らかにする必要がある興味深いトピックかと思います。

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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