脳と身体の教科書

第13回 ピアノ演奏による身体の故障(2)

2010/12/27
ピアノ演奏による身体の故障(2)
(2) 故障発症を引き起こす要因は?

「力み」が手や腕を傷める要因になることや、力みの回避が演奏による故障の予防につながることは、これまで繰り返し説明してきました。では、力み以外に、手を傷める要因は無いのでしょうか?

例えば、「手の小さい人ほど手を傷めやすい」という話をよく耳にします。事実、手を開くほど、手の中の筋や前腕にある筋は強く収縮しますので、例えば10度の重音を力まず掴んで演奏するためには、大きな手をした人の方が有利なのは明らかです(1)。では、実際に手が小さい人ほど手を傷めやすいかを、我々のアンケート調査の結果に基づいて分析しますと、統計的には「手の大きさと、手の傷めやすさには関係がない」ことがわかりました。これについては、反対の結果を報告する研究もあり、未だ議論が続いているのですが、一番重要だと私が考えることは、「手が小さいピアニストでも、手の使い方や演奏する楽曲を工夫すれば、手を傷めずに演奏することができる可能性がある」ということです。

他にも、演奏者の性格や気質が、身体の傷めやすさと関係がある可能性についても報告されています。例えば、先にご紹介したフォーカル・ジストニアを発症する人には、完璧主義な人や神経質な性格の人が多いことが知られています。しかし、その背後にある生理学的理由は未だ不明であるため、脳科学者の間で研究が行われています。

「練習時間」はどうでしょうか?練習をしない人よりする人のほうが身体を傷めるリスクが高いのは当然であり、統計的にも実証されています。しかし、毎日4時間の練習で手を傷めるピアニストがいれば、毎日7時間弾いても身体のどこも傷めないピアニストもいます。なぜでしょうか?これは、まさに「弾き方」や「身体の使い方」といったことが関係していると私は考えています。第3回の冗長性の話の繰り返しになるのですが、私たちは同じ音を様々な身体の使い方で出すことができるため、ある音を出すのにも、身体に負担が少ない弾き方とそうでない弾き方があります。したがって、適切な姿勢や身体の使い方、エコ・プレイを探求し、実現していくことで、同じ時間練習しても、身体を傷めるリスクは減ります。

ピアノ演奏による身体の問題は、よく「使い過ぎ症候群(オーバーユース・シンドローム)」と言われます。確かに、使い過ぎが原因であることは疑いの余地は無いのですが、正確には「無理な身体の使い方で身体を酷使し続けた結果起こる問題」と言うべきかと考えています。問題の重要度を考えると、「ミスユース」の方がより強く認識すべきことではないでしょうか。

(3) 対処療法から「予防教育」へ

ピアノ演奏によって身体を傷めてしまう問題において最も重要なことは、「治療」ではなく「予防」にあると私は考えています。勿論、身体を傷めてしまった時には、効果的な治療が不可欠です。しかし、日々の生活習慣を改善することで、脳血管疾患や心臓疾患の発症を予防できるように、ピアノ演奏による身体の問題の多くは、正しい教育によって、未然に予防することができるはずです。

プロ、アマチュアに関わらず、健やかな演奏生活を生涯にわたって実現するためには、傷めてからの対処療法よりも、演奏者に対する「正しい身体教育」が不可欠なのです。特に、高校生、大学生といった時期に、脳や身体についての教育を行うことによって、「故障ゼロ」を実現することは可能であると私は考えています。事実、ドイツのハノーファー音楽大学やロンドンの王立音楽院といった世界屈指の音楽大学は、音楽を専門的に研究する機関や研究所を内部に作り、研究成果を教育や治療に還元したり、学生が身体の生理学の講義を受けられるようにしたりと、様々な新しい試みに取り組んでおり、学生の健やかな演奏活動をサポートすることに成功しています。

(4)身体を傷めてしまったら

私は、身体を傷めた方にはいつも、「これは今よりもうまくなるチャンスがあるということだから」とアドバイスしています。手や腕を傷めると、練習ができませんし、往々にしてそれはコンサートやコンクール前といった大切な時期に起こるため、絶望的な気持ちになります。多かれ少なかれ私自身も実際に経験しましたので、その気持ちは痛いほどよくわかります。

しかし、「身体を傷める=何か弾き方や練習に問題がある」ことを考えますと、逆に考えれば、「問題のある弾き方や身体の使い方を根本から改善すれば、身体を傷めずに弾けるようになるだけでなく、今よりうまくなる可能性がある」というのが、私の持論です。事実、マレイ・ペライア、ミシェル・ベロフといった名ピアニスト達の多くは、故障から復帰後、今まで以上に素晴らしい音楽を奏でていないでしょうか?単に精神論ではなく、「ピンチはチャンス」である根拠を頭で理解し、万一身体を傷めたとしても、ポジティブな気持ちを忘れないでいただきたいというのが、身体を傷めてしまった方への私からの一番のメッセージです。

その上で、どのようにして状況を改善するかですが、まず整形外科や神経内科(2)で診察を受け、医師の指示に従うことが第一です。もし医師の言うことや方針などに納得できない場合は、「セカンド・オピニオン」と言って、他の医師に診察してもらいましょう。遠慮する必要は一切ありません。そうして、自分に合った医師を探すと良いでしょう。また、人によっては鍼灸やアレクサンダー・テクニックを受けることも有効かもしれません。治療期間中は、どのような弾き方や練習に問題があったのか、自分でよく分析したり、書物を読んだり、先生と相談すると、その後の回復が早まりますし、再発の予防にもなります。

次に、治療によって問題が完治すれば、また再発しないために、問題の根本を断ち切ってください。「あ~治った」と思って、同じ弾き方、練習のしかたを繰り返しては、また辛い想いをすることになるかもしれないのですから。

ここで、身体に不調を感じたときに、決して"していただきたくない"ことが、2つあります。一つは、傷めたのは「弾きすぎたから」と勝手に判断し、しばらく休んでまた同じ弾き方、練習のしかたを続けること、もう一つは、痛みの警告を無視して、練習し続けることです。楽観的にならず、まずは手を止めて、思慮深く原因を分析したり、先生などに遠慮なく相談することで、原因の根本を断ち切っていただきたいと思います。

ただし、生徒さんは身体の不調に気付いても、「せっかく準備した試験やコンクールを受けさせてもらえなくなるのでは?」などといった理由で、先生に言い出しにくい心情があるのも事実です。先生はどうかそういった心情をよく理解して、もし生徒さんに相談された時にどう対応するか、あらかじめ考えておいていただきたいと思います。「ピアノ演奏による故障の問題は、早めの対処がとても重要」だということを忘れないでください。



<参考文献・ウェブサイト>

音楽家のためのアレクサンダー・テクニック アレクサンダー・テクニック教師であり、声楽家でもある小野ひとみ先生のウェブサイトです。音楽家に向けたレッスンやセミナーを日本各地で実施されています。様々な書籍の情報も掲載されています。

Playing (Less) Hurt (英語)著者はミネソタフィルのチェリストであり、演奏全般で起こり得る問題とその解決法が、ご自身の経験と深い洞察、幅広い調査に基づいて書かれています。

Pianomap (英語)オレゴン在住のピアノ教師、Thomas Mark先生のウェブサイトです。"ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと"の著者であり、ウェブサイトでは様々な関連情報が紹介されています。

<脚注>
(1)
先日、私の実験に参加してくれたモスクワ音楽院卒業のピアニストが、ショパンエチュードのOp.10-1を大して手を広げずに、楽々と和音をつかむかのように弾いているのを目の当たりにし、衝撃的でした。
(2)
神経内科は、ジストニアやパーキンソン病、小脳疾患といった脳神経疾患を扱うセクションです。心の問題を扱う「心療内科」とは別物ですので、ご注意ください。

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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