第01回 はじめに
みなさんは、ピアノを弾いていて、自分の脳や筋肉に興味を持ったことはありませんか?
ピアノを弾く時、脳は筋肉に指令を送り、身体と鍵盤を動かしています。練習すると、脳や身体は、人知れず変化します。ですから、脳や身体のことを正しく理解することは、ピアノを弾く上で必要不可欠と言えましょう。
でも、いざ脳や身体について「ちょっと勉強してみよう」と思っても、演奏に直結した書物はほとんどありません。たとえば、「どうすれば、ショパンの半音階やオクターブのエチュードを最後まで力まず弾けるかなぁ」と悩んでいて、ふと、筋肉の構造や働きに興味を持ったとしても、本屋さんに並ぶ専門書を手に取って開くや否や、興味が薄れてしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身、大学院で研究を始めた頃、同じ理由で「さて、何をどこからどうやって学んだらよいやら・・・」と途方に暮れたのを、覚えています。
ではなぜ、演奏者、指導者向けの脳や身体の本が見つからないのでしょうか??
少し、背景となる歴史についてお話します。日本語でも翻訳されていますが、およそ100年前に、トバイアス・マティ1)やブライトハウプトといったピアノ教師の方たちが中心となって、演奏時の身体に作用する力の働きを理解しようとする動きが起こりました。
一方で、科学者が「科学的な言葉で」ピアノ演奏時の脳や身体の働きを語ろうとした本も、同時期にいくつか出版されています。その後、のちに20世紀最高の身体運動学者と呼ばれるニコライ・ベルンシュタインが、オクターブ連打時の腕の動きを、当時最先端であった動作分析装置を用いて調べるという研究を行い、その成果を1930年に論文として発表しました。その中で彼は、ピアノ演奏を研究しようとする過去の試みの問題点や難しさについて、次のように述べています。
「演奏者や指導者が、ピアノ演奏を科学的に研究しようとしても、正しい手続きで実験を行い、得られた結果を客観的に評価・解釈することは困難である。一方、医学や生理学に携わる者がピアノ演奏について語っても、データに基づいていなければそれは憶測に過ぎず、むしろ演奏や指導には時に有害となる。」2)。
私は学生の頃、演奏家になることを目指していたのですが、幸か不幸か、ある時、手を傷めてしまった際に、それを抜本的に解決するための研究が行われていないことを知り、「ピアノを弾く脳と身体の働き」についての研究を始めました。そんな私にとって、このベルンシュタインの言葉は、21世紀になった今でも、真にピアノ演奏者、指導者に貢献する科学研究を行う難しさの本質を物語っているように聞こえます。事実、近年はMRIなどを使って、音楽家の脳の大きさや機能を調べる研究が数多く報告されていますが、演奏時の脳と身体の働きについてきちんと調べられた科学研究は、いまだに極めて少ないというのが現状です。このような状況を打破するために、私は現在、ミネソタ大学神経科学部というところで、「科学がピアニストのためにできること」について日々悩みながら、研究しています。
この連載では、ピアノ演奏に関連する脳と身体の働きについてお話します。内容は、身体の基礎的な話から、最新の研究成果まで、難しい脳科学の言葉や、身体の動きや力を表現する物理の話はできるだけ使わず、演奏や指導との関係を考えながら、お話します。ピアノを弾いたり教えたりする上で、脳や身体について知ることには、大きく2つのメリットがあると考えています。
1)レッスンから学べることが増える
2)練習の効率が上がる
1)は、貴重なレッスン時間の間で、生徒が十分に先生から学ぶためには、先生と生徒の間で、意図の正しい受け渡しがされなければなりません。脳と身体についての正しい知識を身につけることで、「先生はこういうことをおっしゃってるんだ」「この生徒は、身体のここが問題なんだ」といった、より具体的かつ誤解の少ない情報の受け渡しをすることができます。例えば、「手首の力を抜いて」と言っていたのが、「手首の力が入っている原因はここで、それを抜くにはどうすれば良くて、その結果、どんなことが起きるか」となるわけです。2)は、身体の知識を、演奏時の問題解決のツールとして使うことによって、不要な練習時間が削減され、その分を、より深い表現の探求など、有効活用できます。
ただし、初めにお伝えしておきたいことは、本連載で目指すのは、「音楽表現を生み出すための動き」を読者の方に発見していただくお手伝いをすることであって、スポーツのように、単に運動能力のみの向上は、目的としていません。私は、「初めに音楽ありき」だと考えておりますので、「この知識がより素敵な音楽を生み出すためにどう役立つか」をテーマに書き進めていきたいと思います。もう一点重要なことは、科学は万能ではありません。私自身、優れた指導者や演奏家の方の素晴らしい目や感覚を目の当たりする度、そのことを思い知らされます。ですから、科学という道具が役に立たない点についてもお話したいと考えています。
【脚注】
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net