日本洋琴演奏小史

第1部 東京音楽学校の1909年事件と プロイセン王立ベルリン音楽大学(2)

2016/10/14
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東京音楽学校の1909年事件と
プロイセン王立ベルリン音楽大学
2.日本ピアノ演奏の出帆
要約すると・・・
  • 最初の女子留学生が米国でピアノを学び、音楽取調掛が活動を開始します。
  • この時期から音楽取調掛には、入学者から女性を排除するなどの事件がありました。
  • 明治初期の西洋音楽教育はキリスト教の影響を強く受けていました。

ピアノ演奏は欧米からきた芸術であり、まったく自律的に発展したのではなく、海外の影響を受けつづけた。日本ピアノ演奏の独自の道を問題にするならば、なおさらヨーロッパ、アメリカからの影響をしっかり検討する必要がある。

連載の最初の重点を、東京音楽学校の1909年事件とベルリン音楽大学ピアノ科主任教授ハインリッヒ・バルトがもたらしたものに置くつもりでいる。大正、昭和、平成の展開の背景として知っておかなければならないことだからだ。筆者のみるところ、1909年事件はかなりの程度まで以前からの同校ピアノ教育の流れを断ったのであり、バルトの影響は爾後今に至るまでピアノ教育のありかたを規定した。

しかし、その事情を検討するには、遡って明治初期からのピアノ教育の歩みを少なくとも概略だけは記しておかなければならない。

明治維新から時日を経ない明治4年のこと。陰暦11月12日(西暦1871年12月23日)の横浜は晴れていた。この日に岩倉使節団を乗せた外輪船アメリカ号が出航、かれらとともに5名の少女が最初の女子留学生として海を渡った。年長のふたりは孤独に苦しんで帰国するが、出発したとき6歳の津田梅子、9歳の瓜生繁子、11歳の大山捨松はアメリカで勉学を続けた。

三人は19世紀後半のアメリカ合衆国東部を特色づけた独特の気質のもとで淑女としての教育を受けてピアノも学んだ。米国留学は10年に及んで、瓜生繁子はヴァッサー大学音楽学部に進んで音楽を専門的に勉強した。

東京では1879(明治12)年に音楽学校の前身となる音楽取調掛が活動を開始、80(明治13)年アメリカの音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソンが来日した。瓜生繁子も81(明治14)年に帰国して翌年から音楽取調掛に加わった。

音楽取調掛に強い影響を与えたニューイングランド音楽院はボストンにあってミッションスクールとしての性格が濃かった(参照、平高2013、200頁、手代木1999、212-213頁)。キリスト教宣教と結びついた欧米化を推進するメーソンは、国民文化の形成を志向する伊澤修二など日本当局と対立する。日本政府の洋楽推進は文化の主導権に関するすぐれて政治的角逐とともにはじまって、メーソンは1882(明治15 )年に帰国を余儀なくされた(安田2003、52-55頁)

瓜生繁子(同年4月で21歳)がピアノ教育の主軸となり、彼女の役割を果たせる日本人は他に誰もいない。

ところが翌1883年に音楽取調掛の入学者から女性が排除された。取調掛で女性が教師として中心となり、幸田延をはじめとする女生徒が優秀な成績をおさめていたことを考えればまったく実態にそぐわない決定である。女性差別は今後も戦後に至るまで日本のピアノ演奏・教育に影を落とした。

優秀な生徒は教える側に転じて、音楽取調掛が女生徒を受けいれていない1885(明治18)年に、卒業したばかりの幸田延(15歳)と遠山甲子(14歳)が音楽取調掛に採用されて、やがてピアノ教育の中心となった。ここからも女性入学者排除が音楽教育の実情を無視した決定であったことはあきらかだった。

音楽取調掛入学者から女性を排除する決定は四年後に撤回されている。この方針転換について、音楽学者玉川裕子は「男女共学をめぐるこのような経緯は、女性に音楽はふさわしいというすでに存在していたイメージが、実際に音楽取調掛に在籍する女性伝習生が優れた成績を修めた事実によって強化増幅されていたことを推測させる」と指摘した(玉川2012、51-52頁)

メーソン来日のころ、キリスト教宣教師が日本に設立した神戸女学校(女学院)や同志社女学校も音楽教育を熱心に行って、1880(明治13)年に同志社女学校校長夫人の新島八重は「洋琴」を演奏した(吉海2012、40頁)。東京だけでなく、関西で西洋音楽の指導と演奏が行われていたことにも注意すべきだ。明治期日本の洋楽教育では、民間の比重も大きかった。

当時の日本で洋楽教育がキリスト教宣教と強く関係したことも指摘しておかなければならない。19世紀後半のアメリカでは強い宗教的情熱が影響力を持ち、宣教師は日本でも布教を熱心に行った。津田梅子、瓜生繁子、大山捨松は米国留学中にキリスト教徒になった。メーソンはキリスト教布教に強い情熱をよせて、小学校唱歌の旋律はしばしば讃美歌にもとづいた(参照、手代木1999、安田1993、安田2003)

橘糸重、滝廉太郎など初期ピアノ文化の担い手にはキリスト教徒が多く、幸田延も教会に属したことがあった。当時の日本では特にアメリカの宣教団体によって日本布教が行われていて、プロテスタントが音楽界に強い影響力を持っていたのであり、ピアノ教育も例外でなかった。

  • 混乱を避けるために、瓜生(永井)繁子、大山(山川)捨松の姓は結婚後のものに統一しています。
今回、名前のあがったピアニストたち
  • 瓜生繁子(1861-1928)
  • カール・ハインリッヒ・バルト(1847-1922)
Bibliography
  • 玉川裕子「音楽取調掛および東京音楽学校(明治期)教員のジェンダー構成」『桐朋学園大学研究紀要』38(2012年)。
  • 手代木俊一『讃美歌・聖歌と日本の近代』(音楽之友社、1999年)。
  • 平高典子「幸田延のボストン留学」『論叢』54(玉川大学文学部、2013)。
  • 安田寛『唱歌と十字架----明治音楽事始め』(音楽之友社、1993年)。
  • 安田寛『「唱歌」という奇跡十二の物語----讃美歌と近代化の間で』(文春新書、2003年)。
  • 吉海直人『新島八重----愛と闘いの生涯』(角川選書、2012年)。 

山本尚志
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