第31回 『ピアニスト兼作曲家の百科事典』第2部と練習曲 その1
前回、19世紀前半を代表するパリ音楽院ピアノ科教授が著したパリ音楽院用ピアノ・メソッド『ピアニスト兼作曲家の百科事典』(1840年刊)のあらましを紹介した。今回から数回にわたって、三部からなるこのメソッドのうち、高度なピアノ奏法を扱う第2部の内容を見ていこう。
前回指摘した通り、このメソッドの第1部は基礎的なピアノ奏法、第3部は和声や対位法・フーガなど、作曲理論を詳しく扱っている。だが、ヅィメルマンの情熱はそのページ数の多さからしてとりわけ第2部に注がれているようだ。この第2部はそれまでパリ音楽院で使用されていたと考えられるルイ・アダンの音楽院公式メソッドにはない特徴を備えている。それは、1830年代、つまりショパンがパリで活躍した時代に急速に発達した最新の多種多様な演奏技法が網羅的に体系化されているという点だ。30年代といえばポーランドのソヴィンスキやショパン、ハンガリーのリストやヘラー、ボヘミアのドライショク、ドイツのヒラーにローゼンハイン、リストらと同じくチェルニー門下でウィーンから出てきたタールベルク、デーラー、それにパリのエルツ兄弟やアルカンといったヨーロッパのえりすぐりの天才名手たちがあの小さな面積の大都市パリでしのぎを削った時代である。
このコスモポリスのピアノ音楽教育の牙城、パリ音楽院でピアノ科クラスを受け持つヅィメルマンは、おそらくパリのピアノ教育レヴェルをヨーロッパ最高にまで引き上げねばならないという責任を自らに課していたはずである。では、そのために必要なメソッドはなにか。答えは簡単だった。当時最高の技術を可能な限り取り入れることだった。ヅィメルマンのピアノ教育の特徴は、言いかえれば、様々なピアニストたちによって生み出された演奏技術や練習法の利点を採用するという折衷主義にある。ヅィメルマンは『百科事典』の序文で次のように述べている。
この折衷主義によって、彼のメソッドは極めて多様なテクニックを紹介しうる「百科事典」になりえたのだ。このようなテクニックの「総括作業」は、パリ音楽院教授としての名声があって初めて可能となった。というのも、彼の自宅はパリでも屈指の芸術サロンとしてヨーロッパ中からショパン、リスト、クララ・シューマンなど著名なピアニストたちが訪れたからである。若いピアノの名手たちとの交流を通して、彼は若き才人たちのテクニックを間近に観察し情報を蓄積することができたのである。
『百科事典』第2部には、もうひとつ特筆すべき特徴がある。それは、練習曲というジャンルの導入だった。ここでヅィメルマンは練習のために用意した様々な音型に注釈をつけ、そこで彼が参照すべき様々な作曲家の練習曲を列挙している。彼が『百科事典』執筆のために参照した練習曲は、挙げられているだけでもかなりの数にのぼる。以下の表・グラフは彼がどの作曲家の練習曲に何回、注釈で参照するよう指示しているかを示している(表では、1770年代以前、1780年代、1790年代、1800~1810年代生まれの作曲家が、年代別に色分けされている)。
1770年代以前生 | 回数 |
J.-B.クラーマー | 14 |
M.クレメンティ | 14 |
J.-N. フンメル | 5 |
計 | 33 |
1780年代生 | 回数 |
P.-J.-G.ヅィメルマン | 6 |
F. カルクブレンナー | 2 |
*** | |
計 | 8 |
1790年代生 | 回数 |
C.チェルニー | 8 |
H.ベルティーニ | 2 |
I.モシェレス | 7 |
計 | 17 |
1800年代生 | 回数 |
ケスラー | 11 |
F.ショパン | 11 |
W.タウベルト | 2 |
S.タールベルク | 9 |
Ch.-V.アルカン | 3 |
Th.デーラー | 6 |
A.v.ヘンゼルト | 7 |
A.コンツキ | 4 |
H.ラヴィーナ | 5 |
計 | 58 |
この表・グラフからは、ヅィメルマンが19世紀に入ってから誕生した、若い世代(黄色の欄)の練習曲を多く参照していることがわかる。しかも、1800年生まれのケスラーを除けば、他の19世紀世代の作曲家は、皆1810年代生まれである。『百科事典』が出版されたとき、1810年生まれのショパンは30歳ころであり、参照された作曲家の中でもっとも年下のラヴィーナは、弱冠22歳であった。
次に、ヅィメルマンがいつごろ出版された練習曲に多く言及しているのか見てみよう。以下のグラフは、出版年代別に見た参照曲数の割合を示したものである。数値は、年代、作品数、割合 (パーセント) の順に表示されている。作品数は一つの作品番号を一と数えている (各練習曲を一曲ずつ数えた値ではない)。
このグラフからは、ヅィメルマンが参照した練習曲の半数以上が、『百科事典』が出版されるまでの10年間に出版された作品であることがわかる。これらの数値には、ヅィメルマンがいかに積極的に新しい演奏技法を積極的に取り入れようとしていたかがはっきりと現れている。この教授の進取気性によって、パリ音楽院ピアノ科は外国からやってくる名手たちに劣らぬピアニストを育む温床となり、彼の生徒たちはジャーナリズムによってフランス派École françaiseと言われるまでに成長していった。では、具体的にどのようなテクニックが新しい技法としてまとめられ紹介されているのだろうか。次回は1840年代のピアノ奏法最前線を垣間見ることにしよう。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。