ショパン時代のピアノ教育

番外 ―もう一人の「ピアノ詩人」E. プリューダン(1817~1863)公開録音会

2009/05/28

来る6月7日、巣鴨の東音ホールにて連載関連録音会シリーズの第1回目を行うことになりました。これまで本連載ではショパン時代、つまり19世紀前半に活躍したパリ音楽院教授のアダンヅィメルマンカルクブレンナーといったパリの著名なピアノ教師に光をあて、演奏家、作曲家、教育者など様々な側面から彼らの業績を検討してきました。今回、この連載関連企画として録音会を行うに当たりどのような作曲家を取り上げるべきか吟味したのですが、結局ヅィメルマンでもカルクブレンナーでもなく、ヅィメルマンの高弟プリューダンEmile Prudent (1817-1863)というフランスのピアニスト兼作曲家にスポットを当てることにしました。まずはプログラムをご紹介いたします。

プログラム
I. 6つのジャンル・エチュード 作品16(演奏:中村純子、松下倫士)
 1. 昔の話 2. 後悔 3. 海 4. 小川 5. バラード、6. 鬼火
III. セギディーユ 作品25 (演奏:松下倫士)
VI. さらば、春よ― エチュード=カプリス 作品53(演奏:松下倫士)
V. 6つのエチュード=リーダー 作品60 (演奏:中村純子)
 1. 青春の幸せ  2. 愛しき後悔 3. 逃走  4. 闘争 5. 夢、6. 仲間たちの行進

プリューダン

ところで、「プリューダンの演奏会」などときくと、知らない作曲家で素性もよくわからないからあまり足を運んでみたいなどと思われないのは当然のことと思います。そこで、次にこの場を借りて「ピアノの詩人」と呼ばれたこのフランス人作曲家について解説したいと思います。

プリューダンは1817年にアングレームというフランスの地方都市で生まれました。今日でも有名なピアニスト兼作曲家を基準にすると彼はショパンより7歳、リストより6歳、タールベルクより5歳年下ということになります。(左図は彼の肖像。40代頃と思われます)。10代でパリに上京し、パリ音楽院に入学、ヅィメルマンの下で熱心にピアノの腕を磨きます。ピアノ以外にも、彼が和声やオルガン、伴奏法(スコアリーディング)など幅広い音楽的経験を積んだのはこの音楽院においてでした。
1830年代後半、パリでリストと肩を並べ一世を風靡したタールベルクの演奏は、パリ音楽院のピアニストたちに強烈なインパクトを与えました。プリューダンも例にもれず若い頃特にこのヴィルトゥオーゾから強い感化を受け、故郷に戻って修行を積み再び上京、彼自身も優れたヴィルトゥオーゾとして花開いたのでした。彼の出世作ドニゼッティのオペラ《ランメルモールのルチア》にも続く幻想曲(作品8)は20万部も売れたと言われています。
40年代から50年代にかけてプリューダンは著名なヴィルトゥオーゾとしてフランスの主要都市はもとよりスペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギーの諸都市を巡演し、演奏したすべての都市で熱狂を引き起こしました。スペインやドイツでは王族からも認められて勲章や感謝の手紙を受け取るほどの歓迎をうけました。今回の演奏会で取り上げるベッリーニの《清教徒》に基づく練習曲 作品24 (1845)、スペインの王妃に捧げられた情熱的な舞曲《セギディーユ》作品25 (1845) は彼がヨーロッパ各地でセンセーションを引き起こした作品です。
しかし、プリューダンは単なるタールベルクの模倣者にはなりませんでした。彼は、音楽院時代におそらくベートーヴェンバッハなどのいわゆる「古典」に触れ、当時流行だったヴィルトゥオーゾの変奏曲ばかりでなく簡潔かつ明快な構成力もしっかりと身につけました。オーケストラとピアノへの《協奏曲=交響曲》作品34は構成力を備えた作曲家プリューダンの名声を確固たるものにした重要作です。いわばスター的ヴィルトゥオーゾの華麗な演奏技巧とアカデミズムを通して得た形式的センスを巧みに調和させることによって、彼はタールベルクリストなど先輩ピアニストたちと名声を競うことができたのです。40年代から50年代にかけて、プリューダンはこの揺るぎない形式の器に詩情を注ぎ込むことで独自のスタイルを確立します。彼の風景画的作風は、すでに前述の作品2425以前に書かれた《6つのジャンル練習曲》作品16 (c.1844)に表れています。例えば、今回演奏されるこの練習曲集には〈小川〉や〈海〉といったタイトルの歌うような旋律の作品が含まれています。40年代の全般的特徴ではありますが、この作品でプリューダンも他のフランスのピアニストたちと同様、単に指の訓練にとどまらないのびやかな歌唱的表現の練習曲を目指したのでした。50年代に出版された《春よ、さらば》作品53には、彼の詩的センスがはっきりと刻印されていまが、彼の田園の自然的情景に対する愛着と敬意は同時代の風景画の巨匠J-B. C. コロー(1796~1875)のそれに比較できるかもしれません。 プリューダンは1863年、病のため46歳の若さで他界しました。録音会の最後に演奏される《6つの練習曲=歌曲》作品60はいわば晩年の作で、初期の技巧は影をひそめ、簡潔でありながら豊かな旋律と和声の陰影を際立たせています。
以上が演奏曲目を含めたプリューダンについての概略です。さらに詳しい解説や資料は当日の演奏会で配布し私がお話いたします。


プリューダンが私たちに問うもの

プリューダンの作品を聴くと、どうしてこんなにも魅力的な作曲家兼ピアニストの音楽が今では全く顧みられないのだろう?という疑問が湧いてくるでしょう。その理由はあまり簡単には言えませんが、いくつか挙げられると思います。一つには、プリューダンタールベルクの「二番煎じ」というふうに見られ、学者が消極的な評価を下してきたことが挙げられるでしょう。音大生がよく参照する『ニューグローヴ世界音楽大事典』の「プリュダン」という項目には「プリュダンの作曲様式は,独創性と深みに欠ける」という記述があります。その理由には、「3拍子の強調,色彩豊かというよりも感傷的な半音階の多用,左手のアルペッジョと右手の繊細な装飾といった当時の特徴のすべてが見られる」こと、彼が「一定の和声のパターンのうえに展開する装飾が徐々に複雑化する形式」に捉われすぎている点、さらに和声の大胆さに欠ける点が挙げられており、音楽的な面に関してほとんど前向きな評価は下されていません。しかし、この指摘は作品番号でいうと20番台あたりまでのファンタジーや演奏会用練習曲の特徴を記述したものにすぎません。彼は実際のところ変奏ばかりを書いたわけではありません。三部形式の作品においては、序奏やコーダにおいてしばしばとても面白い工夫がなされています。例えばルネサンスのファンファーレの様式を序奏に用いた《演奏会用練習曲》作品28、バロックのトッカータを思わせる序奏をもつ《妖精の踊り》作品41がその例です。「大胆」ではないにせよ、和声の面においても今回演奏される《セギディーユ》作品25には効果的で刺激的な和声を聴くことができます。もっとも、私たちが日本語で読める「ニューグローヴ」の後に出版された邦訳されていなこの事典の第2版ではもっと客観的で公正な評価がなされていることを付け加えておきます。
プリューダンに限らず、どんな理由があるにせよ、ひとたびその作曲家の評価が定まってしまうとそれをぬぐい去るのは容易なことではありません。社会は権威者の評価次第で動くのですから。作品はもう出版されることもなく、従って演奏もされません。いってみれば、何かの権威やある一時代の風潮によって好ましい評価の確定した作品だけが繰り返し演奏されることになるのです。ピアノ教育も当然この社会システムの影響を受けずにはいません。教育はそれゆえ多かれ少なかれ出口のない迷路の中をさまよっているようです。最近ある指導者から聞いた話ですが、ある大学でピアノ科の学生がいざ論文を書かねばならなくなって論文指導をする先生のところにやってきます。けれど学生の持ってくるテーマが毎年みんな同じようなありふれたテーマなのだそうです。「ショパンとルバート」とか、「シューベルトのピアノ曲と歌曲の関連性」とか。もうたくさんの研究がありますから、よほどのことがない限り、限られた時間のなかで新しいことを書くのは難しいでしょう(1)。でもそんなことは本人たちも分かっているはずです。その時彼らは自問するでしょう。「自分は何のためにショパンを弾いているのだろう?」―これはとても大事な問いです。
今や時代は変わりました。ショパンシューマンばかりを弾いていればいい時代にはそろそろ見切りをつけなくてはいけないと思います。この世界的不況のなか、演奏家は自身の活動にどれほどの意義があるのか、ますます問われることになるでしょう。リアルな話ですが、音楽活動を助成する様々な団体は、より意義ある活動のほうに援助の手を差し伸べます。少子化も拍車をかけています。私の知る限りですが、音楽大学の倍率は明らかな低下傾向にあります。この数十年の間に、生涯ピアノに携われる人の数はかなり減っていくのではないでしょうか。自身の活動の意義を確認せずに同じ作品ばかりを繰り返し演奏することのリスクは今後ますます大きくなってきています。
しかし、19世紀のピアノ音楽を研究している私はこの状況を楽観しています。なぜなら、これから演奏されることを待ち望んでいる名作たちは無数にあるからです。19世紀のパリ音楽院関連の作曲家を探すだけでもプリューダンに加えC.スタマティA.マルモンテル、L. ラコンブ、Ch. V. アルカン、ルフェビュル=ヴェリー、J. ヴィエニアウスキなどドビュッシーに至るまで数十名は名前が挙がります。更にドイツの作曲家としてはS.ヘラーJ.ローゼンハインTh. デーラーF. ヒラーなどが挙げられます。このような作曲家たちは、現在演奏会で披露するに値する作品を少なからず書いているわけです。彼らは一人当たり80以上は作品がありますから、19世紀中葉以降も「隠れた名作」を調べていくと、気が遠くなりそうなほどです。
音楽を愛するたくさんの人が勇気を出してこの新しい音楽の大陸に足を踏み入れたら、その瞬間にその人には見過ごされてきた過去を再評価するという「役目」が与えられます。そしてそれは必然的に演奏活動の「意義」となります。その意義づけを行うのは、演奏家本人だけの役目ではありません。それに関してはとくに研究者の協力がもっと必要です。研究者とピアニスト(兼作曲家)が手を取り合って道理を分けて聴衆や生徒に活動意義を訴えかけ、うまくプロモーションしていけば新しい需要が必ず生まれます。そうすれば学術的研究に基づくちゃんとした楽譜出版もできるでしょう。このような活動を通して再びショパンシューマンを見たとき、彼等は全くちがった風に見えるのではないでしょうか。
私は「知られざる...」というよくある表現を好みません。私が研究の中で出会う魅力的な作曲家たちは殆どすべてが知られていませんし、彼ら全員に「知られざる」というレッテルを貼ると、「有名作曲家」と「知られざる作曲家」というカテゴリーに分類しているような気がするのです。私たちは日常的な消費者感覚で有名ブランドのほうが「高級」だという価値判断をしていますが、同じようなことが音楽に適用されてしまう恐れがあります。音楽は工業製品とはちがって、有名であるほど高品質が保証されるということはないのです。にもかかわらず今日、クラシック音楽は往々にして「工業製品」を見るのと同じような感覚でしか扱われていないのではないでしょうか。 さて、やや耳の痛い話になってしまいましたが、以上がこれから私たちの着手しようとしているシリーズ演奏会を通して提起したい根本的な問題です。ここまで批判ばかりしてきたようですが、私は批判をしたいのではありません。少しでも自身の活動に疑問を持ち、この先どうしようか考えている方々に、一つの解決策を提示したいのです。そして私たちの眼前にすでに開かれている豊かな沃野をうまく活用する術について一緒に考えたいのです。そしてなにより音楽を探求することの楽しみを共有したいのです。 それでは、当日会場でお会いしましょう。

2009. 5. 24 上田泰史


1.もっとも、ピアノ科の人でとても面白いテーマに取り組んでいるひとが少なからずいることを付け加えておきます

上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

【GoogleAdsense】
ホーム > ショパン時代のピアノ教育 > > 番外 ―もう一人の「...