第18回 庶民の楽器
【演奏】 演奏:武久 源造 ♪ バッハ/ゴルトベルク変奏曲「アリア」を3つの楽器で (MP3)
1.ジルバーマン・ピアノ/2.クリストフォリ・ピアノ/3.ツンペ・ピアノ
ツンペ・ピアノによるモーツァルト(MP3)
ピアノとチェンバロの違いについては、様々に叙述することができるけれども、今真っ先に私の脳裏に浮かぶこと、...、それは、ピアノが演奏家本意の楽器である、ということだ。そのことを私は、ある小さな初期のピアノと付き合ってみて確信することができた。そのピアノとは、ツンペのスクェアー・ピアノ(1767年製)のレプリカである。まずは、このピアノについて、理解していただくために、少し詳細な説明を試みたい。幾分込み入った叙述になってしまうかも知れないが、どうかお許しのほどを。
久保田チェンバロ工房によって、試験的に製作されたその楽器は、長さ150センチ、奥行き50センチ、厚さが20センチほどの長方形で、専用の台に乗せて演奏する。音域は5オクターヴ(Ff--F''')。
これには、エスケープメント(ハンマー離脱装置)もチェック(ハンマー止め)も着いていない。考えうる限り、最も単純なアクション(打弦機構)である(当時、シンプル・アクションと呼ばれた)。
鍵盤を押し下げると、梃子の原理で、反対側が上がる。その部分に取り付けられたジャック(突き上げ棒)がハンマー・レバーの根元を突き上げる。ハンマー・レバーは、鍵盤とは別の細長い台に、柔らかい羊皮紙を蝶番にして、演奏者側から楽器の奥に向かって取付けられていて、自由に動く状態にある。その先端に小さなハンマーが装着されている。ハンマーは梨の木で、軽くとがった形に整形されていて、やはり、羊皮紙が1枚貼り付けられている。弦はほぼ真横にびっしりと張られていて、1音につき2本ずつである。これをハンマーが的確に打つよう、細心に調整されているのである。ダンパーの方は、楽器の奥側から奏者に向かって取付けられていて、鍵盤に似た細長い木片の下部にフェルトが貼ってあって、それが弦を抑える。これは鯨骨のスプリングによって、上から圧力をかけられているが、真鍮の棒によって、鍵盤の先端と繋がっており、連動して動くようになっている。つまり、鍵盤を離すと、直ちに消音されるように工夫されているわけで、この上から抑える式の消音機構は、スクェアー・ピアノ独特の新発想であった。(後にはこれがグランド・ピアノにも採用される。)
さて、エスケープメントがない、と言っても、ハンマーが弦を打った後は、直ちに自由落下しないと、弦の振動を止めてしまう。そのために、鍵盤に取付けたジャックが、ねじ込み式になっている。つまり、長さを調整できるわけだ。これで、ジャックがちょうど、ハンマーが弦を打つ直前のところまで押し上げていくように調整する。鍵盤の下には分厚いフェルトが敷いてあり、鍵盤の動きの範囲(キー・ディップ)を決めている。それは、ほぼ5ミリほどで、モダン・ピアノに比べると、かなり浅い。一般的なクラヴィコードとほぼ同じ感触である。これらの調整によって、打弦の直前直後の僅かな間、ハンマーが自由行程となるわけで、これは「自然エスケープメント」と言いうる。
これらの「新機構」によって生まれたスクェアー・ピアノは、それまでにあったクラヴィコードによく似ているが、それよりは音量が豊かで、明瞭でもある。また、スクェアー・タイプの楽器と言えば、ヴァージナル、スピネット(エピネット)などが古くからあったわけだが、それらと違って、スクェアー・ピアノは、なんと言っても強弱を自由自在に変化させられる。そして、この楽器は、ジルバーマンやクリストフォリのグランド型に比べて、調律が遥かに長持ちする。(この点、良質なクラヴィコードと同じである。)これらは紛れもなく、この新楽器の長所である。しかし一方、まだまだ開発途上のこの楽器には、様々な欠点もあった。
ところで、ご案内の通り、ツンペは、ドイツで最初にピアノを作ったジルバーマンの1番弟子であった。彼は、「7年戦争」の戦火を逃れて、兄弟弟子たちとともにロンドンに移り、1761年に自分の工房を開く。そして、早くも翌年にはスクェアー・ピアノを完成したのであった。
この楽器は、その後多くの音楽家、愛好家の間に流行していった。モーツァルトは、1764年から翌年にかけてロンドンからハーグへと旅行し、クリスティアン・バッハにも教えを受けるが、そのときクリスティアンは既に、このスクェアー・ピアノを試しており、モーツァルトにも紹介したであろうことは、十分に想像できる。記録としては、1768年6月に、クリスティアンが開いたコンサートに、この楽器が使われたことが分かっている(だけなのではあるが)。
私は、この楽器を弾いてみて、モーツァルトが持っていた移動式クラヴィーアを直ちに思い出した。モーツァルトの持っていたスクェアー型の小型クラヴィーアは4台が現存しているが、それらは、殆どこのツンペ型と同じであった。そこから考えても、8歳のモーツァルトが、ロンドン旅行中にツンペ・ピアノに触れたに違いない、と想像できるのである。
しかし、モーツァルトは1777年にシュタイン製の新しいピアノに出会い、ピアノの「思いもよらなかった」豊かな可能性を知って、狂喜することになる。
そのときの感激を綴った父親への長い手紙が残っている。その中で、彼は、それまでのクラヴィーアが、「かたかた鳴ったり、音が出なかったり、不揃いだったりした」ことを列挙し、それがシュタインのエスケープメント装置によって格段に改良されていることを激賞しているのだが、まさにその「かたかた鳴る、不揃いである、そして、不注意に弾くと音が出ない」というのは、このツンペ・スクェアーの切実な問題点でもあるのだ。
さらにもう一つ、重大な欠点を挙げなければならない。つまり、ツンペにはチェックがないために、ハンマーは落下した後も自由な状態にある。だから、フォルテで弾くと、しばしば2度打ちしてしまうのである。これは音楽的効果としては、かなりマイナスと言わねばならない。これを解決するには、1780年代に入って開発された、いわゆるダブル・アクションの登場を待たねばならない(今から考えると、ずいぶん、時間がかかったものだ)。
しかし、そうは言っても、このツンペ・ピアノ、なかなか捨てたものではないのである。というのも、このピアノは、いろいろの部分が、比較的容易な作業によって微調整できるようになっていて、奏者の感覚や、手や指の具合に合わせて「お好みの」タッチに近づけることができるのである。つまり、弾く曲によって、高音部をクリアに出したいか、低音部を豊かに出したいか、キー・ストロークをどのくらい深くまで感じて弾きたいか、フォルティッシモとピアニッシモは、どの程度の落差をつけたいか、などなど、つまり、奏者にとって気になるコントロール内容が、楽器サイドでかなり繊細に調整可能なのである。
チェンバロやクラヴィコードでは、そうではない。チェンバロの場合、共鳴箱、弦、そして、それをはじくプレクトラム(爪)には、各々固有のキャパシティーがあり、それを変えたければ、例えば、異なるゲージ、異なる製法の弦に張り替えたり、爪に使う羽軸の種類を代えたりする必要がある。それによって、音の全体的な特性を変えることはできるが、しかしそれでも、奏者のコントロール範囲を自由に変えることはなかなか難しいのである。つまり、チェンバロには、それぞれの楽器に、また、楽器のパーツに、いわば理想の鳴り方、理想の生かし方というものが、かなり明確に「プログラム」されていて、むしろ、奏者の方がそれに合わせなければならないのである。いわば、奏者は楽器に仕え、楽器の一部となる。そのとき、奏者の「思い」を超えた音の世界を、楽器は奏で始める。それこそがまさにチェンバロの(オルガンも同様であるが)楽器としての魅力なのである。それは、「自然と人間の合一」にも似た悦びである。
もちろん、こうした面、「楽器としての主張」はピアノにもある。しかし、ピアノでは、その最初期から、奏者のタッチが発音に直結していた。だから、「自分の音楽」をするためには、どうしても「自分のタッチ」に合わせて、楽器を調整する必要があったのである。
このことは、先に触れたモーツァルトの手紙の後段で、彼が引用しているシュタインの言葉からも明らかである。「シュタインは(このすばらしい状態を生み出すために、クラヴィーアの前に座って、ありとあらゆるパッセージや走区や跳躍を試したり、ぶったたいたりして、ピアノがどんなことにも耐えられるようになるまで仕事を続けるのです。なにしろ彼は、ひたすら音楽に役立つために働いているので、自分自身の利益のためではありません。さもなければ、たちまち仕上げていたことでしょう。...」(ロヴァート・L.マーシャル編著、高橋英郎・内田文子訳「モーツァルトは語るーー僕の時代と音楽」 1994年、春秋社)
このシュタインの苦労は、今、私たちも追体験することができる。つまり、ピアノでは、調整に時間をかければかけるほど、「快いタッチ」が得られるのであり、それは、やりだすとどこまでも追求したくなるような「無限の可能性」を感じさせるとともに、「限りない忍耐」をも要求するのである。最もプリミティヴなツンペ・スクェアーであっても、現代ピアノであっても、その事情は同じである。
さて、ツンペのスクェアー・ピアノについて、最後に、最も重要な点に触れなければならない。それは、音色である。これ以前のピアノ、すなわち、クリストフォリやジルバーマンは、ご案内の通り、基本的に「強弱を変えられるチェンバロ」であった。クリストフォリ・ピアノの音色は、少し離れて聴けば、本当にチェンバロと聴き違えるほどに、よく似ている。この楽器は、鍵盤楽器として魅力的であるのみならず、工芸品としても美しい。この点で、これはまさに「チェンバロの新種」である。これに比べるとジルバーマン・ピアノは、かなり無骨な重構造で、チェンバロと言うよりは、かなり、「ピアノ」のイメージに近づいている。音色も、鉄弦を叩いているために、クリストフォリの真鍮弦に比べてかなり太い音がする。それだけ、チェンバロから遠ざかっている、と言える。しかし、ジルバーマンはそれを「補う」ために、「チェンバロ・レジスター」と呼ばれる装置を着けて、チェンバロ的な音も出るように工夫した(参考⇒こちら)。
ところが、ツンペ・スクェアーは、これはもう、どう聴いてもチェンバロの音ではない。少し離れて聴けば、かなり後のピアノと勘違いするほどだ。音色に関して、ピアノの歴史はここで、大きな一歩を踏み出したと言っていいだろう。
そして、もうここには、視覚的装飾の要素はない。元々、家庭音楽のための普及型を意図して作られたせいもあろうが、しかし、チェンバロの時代には、そういう家庭用の楽器であっても、工芸品としての美しさへの配慮は、けっして忘れられなかった。ピアノは、合理性と節約を好む、新時代の「庶民」の楽器として、受け入れられていったのである。
1957年生まれ。1984年東京藝術大学大学院音楽研究科修了。チェンバロ、ピアノ、オルガンを中心に各種鍵盤楽器を駆使して中世から現代まで幅広いジャンルにわたり、様々なレパートリーを持つ。特にブクステフーデ、バッハなどのドイツ鍵盤作品では、その独特で的確な解釈に内外から支持が寄せられている。また、作曲、編曲作品を発表し好評を得ている。
91年「国際チェンバロ製作家コンテスト」(アメリカ・アトランタ)に審査員として招かれる。07年および01年、第7回及び第11回古楽コンクール(山梨)に審査員として招かれる。00年に器楽・声楽アンサンブル「コンヴェルスム・ムジクム」を結成し、指揮・編曲活動にも力を注いでおり、毎年数多くのアンサンブルによるコンサートを行い、常に新しく、また充実した音楽を追求し続けている。02年および03年には韓国からの招聘により「コンヴェルスム・ムジクム韓国公演」を行い、両国の音楽文化の交流に大きな役割を果たした。
91年よりプロディースも含め20作品以上のCDをALM RECORDSよりリリース。中でも「鍵盤音楽の領域」(Vol.1?6)、チェンバロによる「ゴールドベルク変奏曲」、「J.S.バッハオルガン作品集Vol.1」、オルガン作品集「最愛のイエスよ」、コンヴェルスム・ムジクム「バロックの華?ローマからウィーンへ」、ほかの作品が、「レコード芸術」誌の特選盤となる快挙を成し遂げている。02年、著書「新しい人は新しい音楽をする」(アルク出版企画)を出版。各方面から注目を集め、好評を得ている。現在、フェリス女学院大学音楽学部器楽科講師。