第14回 モーツァルトのピアノ
今回からモーツァルトのピアノについてコメントしてみましょう。
モーツァルトが自分自身のピアノを手に入れたのは、意外にも遅く、1782年から翌年にかけて、或いはそれよりも後のこととされています。
既にウィーン時代、彼の晩年と言ってもいい時期です。この頃の彼の鍵盤曲には、クレッシェンドやスフォルツァンドが多用されていて、チェンバロでは表現困難、或いは不可能な内容を持っています。ですから、当然、もっと前から彼はピアノを持って、その可能性を組み尽くしていたのでは、と思いたくなります。
実際彼は、1765年にロンドンでクリスティアン・バッハの教えを受け、ピアノを知った時以来、ピアノの発展の歩みを常にチェックしていました。ウィーンのピアノ製作の草分けであるシュタインとの交友は有名です。シュタイン・ピアノを激賞した手紙が残っています。また、モーツァルトの3台のピアノとオーケストラのためのコンチェルトは、シュタイン自身(第3ピアノ)、モーツァルト(第2ピアノ)シュタインの娘(第1ピアノ)というメンバーで何度か演奏されてもいます。(1778年マンハイムなど)
現存のシュタイン・ピアノを見ると、楽器のテール部分(鍵盤の反対側)が円くなっていて、ツェルなどのジャーマン・チェンバロと似た形をしています。ハンマーも幾分華奢で、鍵盤のストロークも浅く、音色もチェンバロ寄りだと言えます。音量こそ出ないものの、まろやかで軽快なタッチのすばらしい楽器です。これをモーツァルトが気に入ったのも当然でしょう。モーツァルトのKV300代のピアノ・ソナタを弾くには適しています。
しかし、このことを考えるとき、シュタイン以前のピアノ(例えばシュペートのピアノなど)が余りにも未完成で、モーツァルトにとって、とても満足の行く物でなかったことを念頭に置いておく必要があるでしょう。シュタインは、新しいエスケープメントの機構を開発し、ハンマーの2度打ちを防止するためのバック・チェックと呼ばれる装置も編み出し、それまでのピアノと比べれば、信じがたいほどのクオリティー、強弱の可能性、軽やかさ、歌うような音の伸びなどを実現しました。しかし、シュタイン・ピアノは、管楽器を含む、当時の大オーケストラを向こうに回してのピアノ・コンチェルトには不向きでした。
実は、モーツァルトのピアノ・コンチェルトは、初期の物はチェンバロで弾かれた、チェンバロ・コンチェルトであり、10番代の曲はシュタイン・ピアノのような、比較的音量の弱い楽器で弾かれたものと思われます。演奏の場所も、普通、個人の邸宅など、小さなスペースのことが多く、オーケストラの編成も小さく、管楽器は省略可能と指示された物もいくつかあります。
それが、いよいよウィーン時代となると、さらに要求が高まってきます。大きな会場、大オーケストラを背景に演奏されるコンチェルトに、モーツァルトはチャレンジします。そのためには、さらに音量があって、重量感と鋭いアクセントが出せて、強弱の幅も広いピアノが必要でした。
それが、アントン・ヴァルターの楽器でした。
1957年生まれ。1984年東京藝術大学大学院音楽研究科修了。チェンバロ、ピアノ、オルガンを中心に各種鍵盤楽器を駆使して中世から現代まで幅広いジャンルにわたり、様々なレパートリーを持つ。特にブクステフーデ、バッハなどのドイツ鍵盤作品では、その独特で的確な解釈に内外から支持が寄せられている。また、作曲、編曲作品を発表し好評を得ている。
91年「国際チェンバロ製作家コンテスト」(アメリカ・アトランタ)に審査員として招かれる。07年および01年、第7回及び第11回古楽コンクール(山梨)に審査員として招かれる。00年に器楽・声楽アンサンブル「コンヴェルスム・ムジクム」を結成し、指揮・編曲活動にも力を注いでおり、毎年数多くのアンサンブルによるコンサートを行い、常に新しく、また充実した音楽を追求し続けている。02年および03年には韓国からの招聘により「コンヴェルスム・ムジクム韓国公演」を行い、両国の音楽文化の交流に大きな役割を果たした。
91年よりプロディースも含め20作品以上のCDをALM RECORDSよりリリース。中でも「鍵盤音楽の領域」(Vol.1?6)、チェンバロによる「ゴールドベルク変奏曲」、「J.S.バッハオルガン作品集Vol.1」、オルガン作品集「最愛のイエスよ」、コンヴェルスム・ムジクム「バロックの華?ローマからウィーンへ」、ほかの作品が、「レコード芸術」誌の特選盤となる快挙を成し遂げている。02年、著書「新しい人は新しい音楽をする」(アルク出版企画)を出版。各方面から注目を集め、好評を得ている。現在、フェリス女学院大学音楽学部器楽科講師。