☆インタビュー第8回 一柳慧先生
一柳慧先生インタビュー「新しい発想を持って」連載本文「1960's その1 アヴァンギャルド」にてご紹介したとおり、日本の音楽界は、60年代に「ケージ・ショック」という大きな出来事を体験しました。その立役者が、一柳慧先生でいらっしゃいます。一柳先生は、青山学院高等部在学中に日本音楽コンクール作曲部門で優賞後、ジュリアード音楽院に留学。その後、世界的前衛芸術家ジョン・ケージとの出会いを機に、前衛作曲家として頭角を現されました。知的でクールなお姿と、その背後に見え隠れするアヴァンギャルド精神。フランクで楽しいお話に散りばめられた、大切なメッセージの数々を、どうぞお楽しみください。 アメリカから日本へ― 先生がケージと出会われたのは、ジュリアード音楽院ご卒業後でいらっしゃいましたね。 一柳先生:そうです。最初にケージの音楽を聴いたのは、ライブハウスのようなところでした。当時の彼は、完全にアンダーグラウンド的なフリーランスアーティストでした。なので彼の名前は、ある程度は知られていましたが、すごく有名というわけではありませんでした。 ― ケージのような大作曲家でも、"アングラ"からだったのですね。 一柳先生:日本だと、みんなが楽壇とか音楽界とか表舞台に登ろうとしますが、アメリカでは、たとえカーネーギーホールやリンカーンセンターに出なくても、十分に報われますし理解者もいます。 ― なるほど。日本ではみんなが同じところを目指しますが、アメリカでは好きなところを自由に目指せる雰囲気があるのですね。 一柳先生:もちろん、大学の教授になったりしなければ、貧乏ではあるかもしれませんが、それもアメリカではあまり気にならないというかな。日本ではお金がないと、変な危機感があるじゃないですか。 ― そうですね、日本とアメリカでは価値観が違うのですね...。ところでその後先生は、1961年に日本に帰国されましたが、当時の日本の雰囲気はどうでしたか。 一柳先生:当時の日本は、予想していた以上に、新しい音楽に対して関心を持ってくれました。他の芸術分野の人たちも含めてね。まだ全てが未分化で、今よりもはるかに面白くなる可能性をはらんでいた気がします。ジャーナリズムの関心も、とても高かった。 ― 先生が紹介されたアメリカの前衛芸術は、当時の日本にとっては全く新しいものだったのでしょうね。今とは違って、現代音楽が"カッコいいもの"だったのではないでしょうか。 一柳先生:それはもう、今とは全然違いますね。少なくとも、私が帰国して十年ぐらいの間は、二十世紀音楽研究所であれ草月会館であれ、催しにはいつもお客さんがいっぱい来ていました。特に1969年の「クロストーク・インターメディア」という催しでは、代々木のオリンピック体育館に一日で8,000人が入りましたからね。 ― 8,000人!今の日本で8,000人入るイベントというと、ポップス系ですかね。当時もポップスのイベントはあったのでしょうが、それと同じぐらい、あるいはそれ以上に"カッコいい"という印象が、現代音楽にもあったのでしょうね。 一柳先生:そうですね。参加しないと乗り遅れる、という雰囲気さえありました。 他分野との交流― 先ほどの「クロストーク・インターメディア」という催しは、音楽・映像・光など様々な分野が融合したイベントだったそうですね。一柳先生は、ニューヨークにいらっしゃる頃から他分野のアーティストと交流されていましたが、そうした交流の良さはどのようなところでしょうか。 一柳先生:それはやっぱり、様々な刺激を受けるところでしょう。舞踊を見たり建築を見たりするのは面白かったですし、美術家や作家など色々な考え方を知ることは大きな刺激になりました。例えば美術の場合、音楽などのパフォーミングアートとは違って、全てがクリエイティブです。なるべく他の人と違うことを考えようとする人が、沢山います。表現に対するエネルギーの持ち方が、違うのですね。良くも悪くも、そういう刺激を音楽はもっと受けるべきです。 ― 現在先生は、芸術総監督をされている神奈川芸術文化財団などで、他分野との交流企画を積極的にプロデュースされていますね。 一柳先生:他分野と連携して新しいソフトを生み出す場を、なるべく多く提供したいと思っています。日本はハコモノ文化で、ソフトがない。極端に言えば、先にソフトがあって、それをやりたいからハコを探すという方が健全ですね。例えばここは喫茶室ですが、机と椅子を取り払って音楽会場にしてしまう、ということだって出来るわけですよ。だけど、そんなこと誰も考えないでしょ。 ― そうですね...。 一柳先生:出来上がった枠組みの中で物事を考えるのではなく、既成のものをそれまでと違う角度から見てみることが大事ですね。特に現代音楽の場合、「現代音楽」というレッテルに縛られて、その枠組みの中でしか作品が生まれてこない傾向にあります。もっと自由に新しい発想を持って枠組みを外していかないと、音楽界は完全に見放されてしまうと思います。 ピアノ教育について― ところで、先生はピアニストとしてもご活躍されていますが、先生が受けていらしたピアノ教育はどのようなものでしたか。 一柳先生:色々な先生に習いましたが、特に原千恵子先生からは多くのことを学びました。先生は、当時貴重だった楽譜やレコードを惜し気もなく貸してくださいましたし、ご自身の室内楽のコンサートではよく譜めくりもさせてくださいました。音楽の核心を教えていただいた気がします。 ― 原先生の下で多くの体験を積まれたのですね。レッスンはどのような感じでしたか。 一柳先生:とにかく進め方が速かったですね。留学されていたフランスのピアノ教育の影響もあるかもしれませんが、次から次へと曲を与えてくださいました。常にバッハは持っていましたが。 ― なるほど。 一柳先生:一曲にかける時間が非常に長い先生もいると思います。一年に一曲とか。でも、それでは世界が広がらないですよ。若いうちからパーフェクトに弾けるわけではないですし、一週間に一曲ずつ仕上げて一年では数十曲に、という方が良いと思いますね。 ― 音楽の幅を広げることは、とても大切ですね。少し話が逸れてしまいますが、実は今ピティナでは、日本のピアノ教育全体のレパートリーを広げる努力をしています。バッハ、ベートーヴェン、ショパンなどよく知られている曲以外にも、良い作品はいっぱいありますということを、様々な企画を通して紹介していこうと...。本連載もその一環ですが。 一柳先生:それは良いことですね。 ― ただ実際にはなかなか難しく、人気があるのは、例えばやはりショパンだったりします。もちろん努力が蓄積されていけば、少しずつ変わっていくのかもしれませんが...。 一柳先生:でも今、ショパンはかなり厳しいですよ...。 ― えっ、...とおっしゃいますと? 一柳先生:私も時々ピアノのコンクールで審査員をするのですが、ショパンはよほど上手くないと通らない。評価基準がどうしても厳しくなってしまうのです。 ― なるほど!でも、それでもやはりショパンを目指す、ショパンの最高点をみんなが目指してしまう、というところが日本にはある気がします。冒頭でお話いただいた、日本ではみんなが表舞台を目指す、というお話と重なりますが。 一柳先生:...でもまぁ、選曲の規定が緩やかなコンクールの場合は、自主的に新しい作品を選ぶ方が有利ですよ。ほんと、そうですよ。 ― 「新しい作品の方がコンクールには有利!」、これは良いキャッチフレーズですね(笑)。 新しいことを楽しむ― 最後に、先生の最近のご創作について伺わせてください。先にお話いただいた、近年の様々なプロデュースのご活動と関連して、ご創作にも何か変化はございますか。 一柳先生:そうですねぇ...。例えば60年代に使っていたグラフィックな譜面をまた使ってみるなど、既成のものをもう一度新しく読み直す、ということをしています。 ― グラフッィクな譜面とは、連載本文でもご紹介したような図形楽譜ですね。美しい絵のような楽譜は、五線譜に慣れている私たちにはとても新鮮です。音の高さや長さも、演奏者に任されている部分が多く、何かこう演奏者自身が自分の内側をより深く探っていくような感じさえあります...。 一柳先生:最近では、演奏家であり作曲家であり即興家でもある、という若い人たちがかなり育っています。なので、今グラフィックなものを書いた場合に、昔とは違う演奏をしてくれる可能性を感じますね。時代も違うし、考え方も違いますから。 ― なるほど、そこにも"読み直し"の可能性があるのですね。 一柳先生:そう、それに若い人たちと一緒にやることで、こちらも色々吸収させてもらうというかな。 ― 先生ほどの大作曲家でいらっしゃる方が、そんな風におっしゃるとは! 一柳先生:いやいや。現代音楽オタクみたいに固まっている人たちとやるより、動きながら可能性を求めている人たちと一緒にやる方が、こちらも楽しいですから。 ― 先生は一時期、芸大などで教鞭も取っていらっしゃいましたが、その後、教える活動からは少し離れていらっしゃいますね。 一柳先生:教える、というのがあまり合わないのです。師弟関係という形ではなく、ワークショップのように、一緒になって何かやるという形の方が面白いですから。 ― 私もよく「work with you」という言葉を、アメリカの先生方には言われるのですが、ニュアンスとしては、「教える」というよりも「一緒にやる」という意味ですよね。初めはびっくりしたのですが。 一柳先生:全くその通り。ですから、弟子や生徒である人も、どんどんやっちゃえばいいわけですよ。若い時には、間違えたってどうということはないですし...! アメリカの芸術界を体感され、その自由さや積極性を日本に持ち帰られた一柳先生。日本作曲界の巨匠のお一人として不動の地位を築いていらっしゃるにも関わらず、今でも常に新しいことを楽しまれ、新しい発想を持って既成のものを読み直していかれようとするお姿からは、「前衛」「アヴァンギャルド」といった尖ったイメージとはまた違う、何かとても爽やかなものを感じました。「教える、というのがあまり合わない」とおっしゃる一柳先生ですが、先生のその自由で前向きな姿勢そのものから、とても大切なことを学ばせていただいた気がします。 |
一柳慧先生プロフィール |
東京芸術大学楽理科、大学院応用音楽科修了。在学中よりピアニストとして同年代作曲家の作品初演を行う一方で、美学や民族学、マネージメント等について広く学ぶ。04年、第9回JILA音楽コンクール現代音楽特別賞受賞、第6回現代音楽演奏コンクール「競楽VI」優勝、第14回朝日現代音楽賞受賞。08年、第8回オルレアン国際ピアノコンクール(フランス)にて、深見麻悠子氏への委嘱・初演作品が、日本人として初めてAndreChevillion-YvonneBonnaud作曲賞を受賞。同年、野村国際文化財団、AsianCulturalCouncilの助成を受け、ボストン・ニューヨークへ留学。09年、YouTubeSymphonyOrchestraカーネギーホール公演にゲスト出演。現在、現代音楽を中心に、幅広い活動を展開。和洋女子大学・洗足学園高校音楽科非常勤講師。
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