Category IV 「鐘」
この世代のピアノ曲の標題で最も多いものの一つに「鐘」がある。今日に残ったほとんど唯一の作品がリストの「カンパネラ」だが、この曲は"パガニーニ練習曲"の第3曲として、1851年に改訂版がクララ・シューマンに献呈された折に現在知られている形になった。しかし、この曲より12年前、未だ独身時代のクララに「カンパネラ」を贈った作曲家がいた。ウィルヘルム・タウベルト(1811-1891)である。
リストと同年生れのタウベルトは、メンデルスゾーンと同じL.ベルガー門下で、この時代のドイツを代表する巨匠の一人である。タウベルトの「ラ・カンパネラ」Op.41-1は「エレジーとイディール」という副題を持つ技巧的な作品で、簡易版が出版される程、当時の人気曲であった。しかも作品後半の音符の並びがリストのそれによく似ている。
リストも同じクララに書いている以上、タウベルトを意識してのことと察せられる。タウベルトは後年「カンパネラ 第2番」として「鐘楼の娘」Op.157を書いた。第2番は音楽的にはさらに見事な内容であるが、ここでは次の「鐘の歌」との調性の重複に甘んじ、歴史的な意義を優先して、"1番"を選んだ。もっと詳しく!
1811.3.23. ベルリン生、1891.1.7 ベルリン没
今日、日本でタウベルトの名は「タウベルトの子守唄」と呼ばれる子ども向けの歌曲で知られています。この曲は、1830年代の半ばに出版された《歌曲集》作品27の第5番「子守唄」にあたり、大正時代に大衆歌の一つとして日本語の歌詞と共に紹介され、以後今日まで合唱や重唱で歌い継がれています。そのタウベルトは、実は19世紀においてプロイセンの首都、作曲、ピアノ演奏、指揮と、多才な能力を発揮したベルリンの音楽界の重鎮でした。
1811年3月23日、ヴィルヘルム・タウベルトはベルリンに誕生しました。ピアノのレッスンを受け始めたのは8歳の頃からで、最初の教師は後にベルリン大聖堂の合唱隊長となる作曲家アウグスト・ナイトハルト(1793~1861)でした。12歳の時、タウベルトはベルリンの著名な作曲家・ピアニスト、ルードヴィヒ・ベルガー(1777~1839)の門を叩きます。ベルガーは腕の神経不全のため演奏の舞台から退いていましたが、クレメンティ(1752~1832)、フィールド(1782~1837)との交流を通して磨き上げられたピアノ演奏技法の奥義をF. メンデルスゾーン(1809~1847)、A. ヘンゼルト(1814~1889)に伝えた優れた指導者でした。タウベルトはみるみる腕を上げ、14歳の時には公開演奏会の舞台に立つまでになりました。ギムナジウムで文学を修めた彼は、大学で更なる勉学に勤しみました。同じころ、作曲家としての能力に磨きをかけるため、彼は「ドイツのパレストリーナ」と称されたベルンハルト・クライン(1793~1832)に師事し、厳格な音楽書法の指導を受けました。
タウベルトは、ほどなくベルリンの宮廷楽団でコンサート・マスター(1825年からは音楽監督)で著名なヴァイオリニストのカール・メーザー(1774~1851)のサロンに出入りするようになります。メーザーはウィーン滞在時にハイドンやベートーヴェンの作品を演奏して作曲者本人から賞賛を受けた名手で、とりわけベートーヴェン作品の守護者として知られていました。タウベルトはこのサロンでベートーヴェンやモーツァルトの協奏曲やトリオを演奏し、参会者を魅了、優れた音楽家として認識されるようになります。28年、ポモジェ、フランクフルトを旅行しピアニストとしての成功を収めると、彼の下には優れた弟子たちが集りました。中でもテオドール・クッラーク(1818~1882)、アレクサンドル・フェスカ(1820~1849)は後に著名なヴィルトゥオーゾとなります。
タウベルトは、30年に作曲家としてのキャリアへと踏み出します。この年、タウベルトはヴァイオリンとピアノのための《大二重奏曲》作品1を皮切りに歌曲、ピアノ曲を次々に出版し始めました。彼はやがて創作領域を大規模作品へと拡大し、31年、《交響曲 第1番》作品31を発表、メーザーの取り持つ定期演奏会で上演され、翌年にはオペラも成功も成功させ、タウベルトは新進気鋭の作曲家として注目を集めるようになりました。
33年には、ライプツィヒで《ピアノ協奏曲》作品18を披露、続いて足を運んだドレスデンでは劇の付随音楽が上演されました。翌年、ベルリン宮廷楽団の演奏会で《放浪者》を成功させます。この頃から彼は自ら指揮台に立つようになり、オーケストラを的確に操る彼の技量はメンデルスゾーンの惜しみない賛辞を受けました。30年代半ば、タウベルトは著名な歌手の妹と結婚、イギリス、スコットランド、オランダ、ライン地方を旅行し、その印象は《スコットランドの想い出――8つの幻想曲》作品30や《ピアノ三重奏》作品32に結実します。この時期、ピアノ界を覆う過熱したピアノ音楽の流行は、新しいピアノ音楽のスタイルへとタウベルトの関心を導きました。《12の演奏会用練習曲》作品40(1838)、クララ・ヴィーク(のちのシューマン夫人)に捧げられた《鐘――協奏的練習曲》作品41(1839)は30年後半の「エチュード熱」を反映する作品であり、後者はヒット作として広く親しまれました。
40年、プロイセン王の座に就いたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ベルリンの文化的求心力を強化するために、指導的な音楽家を必要としていました。まず白羽の矢が立ったのは当時国際的な名声を得ていたメンデルスゾーンでしたが、彼は既に活動拠点ライプツィヒでゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者という地位にあった上、ライプツィ音楽院創設など多くの優先させるべき計画がありました。そこで、国王は一定期間メンデルスゾーンにプロイセン音楽総監督の仕事を請け負わせたのち、彼の意向を尊重して長期間ベルリンで活動することができ、かつ同地の音楽文化興隆に資する音楽家として、タウベルトを重用するようになります。タウベルトはプロイセン音楽総監督に就任したマイアベーア(1791~1864)の采配下、42年にベルリン王立劇場の指揮者に就任、自ら作曲したオペラ《侯爵と泥棒》を上演し成功を収めました。さらに同年、宮廷楽団の指揮者(69年以降は主席楽長)を兼任することになったタウベルトは83年まで約40年間、オーケストラの指揮と作曲に力を注ぎました。45年頃にマイアベーアがベルリンを離れてから数年間、彼は一時的にプロイセン音楽総監督の役職も務めています。
ベルリン音楽界の中心的人物となった彼は、プロイセン王の祝典、オペラ座創立百周年など、公的な式典のためにカンタータ作曲を依頼され多忙な音楽生活を送るようになります。46年、宮廷楽団によって上演された《交響曲 第2番》ヘ長調(プロイセン王女に献呈)は、彼に面目躍如たる成功をもたらしました。この曲はライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団でも作曲者の指揮で上演されています。50年代には《交響曲 第3番》作品80(1852)、王立楽団創立百周年に際して演奏された《交響曲 第4番》作品113が上演されました。
彼はシェイクスピアの戯曲による《マクベス》作品133(1857年初演)、同じくシェイクスピアの『十二夜』にもとづく《シザーリオ》作品188(1874年初演)をはじめとするオペラ、ミュンヘンで上演された劇付随音楽《テンペスト》、その他4曲の弦楽四重奏、非常に多くの歌曲集とピアノ曲を書き続けました。現在作品番号にして205番まで彼の作品が確認されていますが、200番台は既に晩年を迎えた1886年以降の作です。タウベルトは1891年、79歳でベルリンに没しました。
チャールズ・ランは書法的には簡素ながら、独特の神秘的な抒情を醸すイギリスの"音の詩人"である。この世代のイギリス人作曲家はメンデルスゾーンを規範とするドイツ風アカデミズムと、ネイティヴなイギリス音楽を追求する二派に分かれていた。ランは後者に属する。もっと詳しく!
1817. ロンドン生、-?
「ピアノ音楽史における最大の謎といってよいのは19世紀イギリスではないでしょうか」とは19世紀の音楽と社会を専門とされる西原稔氏の言葉です(西原稔『ピアノの19世紀』第二回参照)。他のヨーロッパ諸国に先駆けて産業革命を起こし、ブロードウッドやクレメンティをはじめとする製造者によってピアノ産業も飛躍的に発展しました。フランスのピアノ製造業者シモン・エラールが「イギリス式」アクションをモデルにしてピアノのアクション構造に新しい発明を加えていったことはよく知られています。また、大陸からもヘンデル以来、ハイドンやメンデルスゾーン、モシェレスなど音楽家が頻繁に訪れて演奏していた。 ところが、こんにち、イギリス国内で活躍した作曲家の存在は殆ど知られていないのです。
ヘンリー・チャールズ・ランは、そうしたイギリスのピアノ・シーンで活躍した音楽家の一人です。1817年、ロンドン生まれのランは、生涯殆どイギリスのみで活動した音楽家です。ランについては専門研究がないため、彼の受けた教育については殆ど分かっていません。但し、1823年に開校した音楽教育機関王立ミュージック・アカデミーと関わりがあったことは確かです。
1840年、20代後半のランは既に作曲家としての活動を始めており、彼の歌曲がこのアカデミーの学生によって歌われたという記録があります。40年代半ばには英国アカデミーの一員となり、彼のエッセイ集『ある音楽家の黙想:音楽に関する事柄と音楽に関わる人々の実例としての流俗的素描』(序文1846年)で注目を集めました。この著作は音楽、音楽家、楽器、社会、階級などにまつわる主題を扱いながら、イギリス特有の音楽文化の様相を風刺的に描いたもので、49年には第2版が出版されています。1860年代の資料では、ランの肩書きには「王立音楽アカデミー教授」という肩書きが加わっています。この時期以降、60年代から70年代にかけて、ランはハイドン、モーツァルト、クレメンティ、ドゥシークの校訂楽譜を出版しています。ランは、その後も定期刊行の音楽雑誌上で美学的な問題や音楽の社会的問題を取り上げながら執筆活動を続けました。
大英図書館には、ランの作品が30点あまり所蔵されています。数点の歌曲を除けば、すべてピアノのための作品です。いずれも1850年代以降の作品で、タイトルは《海辺の祈祷者》(1862)や《夜の声――瞑想曲》(1874)、《ボート・ソング――舟歌》(1878)のように詩的な言葉とジャンル名を組み合わせた、19世紀後半に典型的なタイトルをもつサロン小品。
なお、ランと次のテデスコの二名は1817年生れながら、誕生日が不明のため、同年生れの作曲家の最後にアルファベット順に並べた番号となっている。
プラハ生れのイグナツ・アマデウス・テデスコは卓越したヴィルトゥオーゾの一人で、高度に技巧的な作品を多く残した。それらは華麗というよりは透明感のある端正なものである。アンリ・リトルフに献呈された「カリヨン」Op.65は輝くような銀の音色を描写したもの。こうした長調の明るい鐘の曲は珍しい。もっと詳しく!
1817.3.1. プラハ生、1882.11.13 オデッサ没
ボヘミア出身のピアノ奏者、作曲家。父の下でピアノを始め、次いで当時プラハのオペラ座で楽長を務めていた作曲家ヨーゼフ・トリーベンゼーJosef Triebensee(1772-1846)に師事しました。このトリーベンゼー師はオーボエ奏者でもあり、1791年にモーツァルトの指揮で上演された『魔笛』の初演にも参加した、著名な音楽家です。テデスコは、12歳の時に早くも公開演奏会で演奏し、13歳のときにヴィーンの演奏会で成功を収めました。プラハに戻ると、彼はボヘミア音楽界の重鎮トマーシェクの門下に入り、ピアノと作曲を学びます。1835年にはヴィーンで再び演奏会を開き、翌年にはドイツへ演奏旅行、ライプツィヒではゲヴァントハウスの演奏会に登場しました。彼は19歳で既にボヘミアの音楽学校で教鞭を執っていたとい云います。この時の彼の弟子には名手ユリウス・シュルホフ(1825~1898)、カール・ヴェーレ(1825~1883)がいます。40年に一旦プラハに戻り、続いて南ロシアに旅行。リヴィウ、チェルニウツィー(いずれも現ウクライナ領)、ヤシ(現ルーマニア領)で演奏会を行い、最終的にオデッサに定住、47年までピアノ教育に身を捧げました。翌年、テデスコはパリを訪れ、エラール社のサロン、次いでサル・エルツにて演奏会を開きました(この時の肩書きは、オルデンブルク大公付きピアニストとして紹介されています)。参考までに、1858年1月29日にエラール社のサロンで行われた演奏会の演目を一瞥しておきましょう。
- ベートーヴェン:《ピアノ・ソナタ》 作品22
- [以下、オリジナル作品]
- 《想い出――ノクターン》 作品81
- 《さらば、ヴィーンよ――即興曲》作品26
- 《夏の夜――6つの性格的小品》作品86より3曲抜粋
- 《カーニバルの情景》作品82
- 《ボヘミア万歳――国民唄》作品83
- 《ヤシの想い出――華麗なマズルカ》作品85
この年から翌年にかけてパリの聴衆を惹き付けたテデスコは、出版社ブランデュと契約し、年内に《大ギャロップ》作品75、上の演奏会で弾いた作品81~83を出版、作品82をA.-F. マルモンテルに、作品83をF. ル・クーペ(いずれもパリ音楽院教授)に献呈しました。同年、パリを離れたテデスコは、ハンブルク、ロンドンに滞在。以後の足取りは、更なる調査を要しますが、82年にオデッサで没していることから、再びこの地に戻り暮らしたと見られます。
テデスコの作品は、作品番号にして118作品が確認されており、全てがピアノ独奏用の作品です。ジャンルは多岐に亘りますが、トマーシェクの伝統を汲むピアノ小品、中規模作品を多く書いています。ノクターン〔作品44、47、63、88、90〕、即興曲〔作品9、17、26、70、71〕、カプリース〔作品6、24、48〕、ラプソディ〔作品52〕、《ドイツの旋律》〔作品49、76、80、108〕と題された連作。また、舞曲ではマズルカ(作品27、32、53、76bis、85)が最も多く、次いでワルツ(作品40、62、89、104)、ギャロップ(作品)、ポルカ(作品35、70〔即興曲を兼ねる〕)、レドヴァ(作品71〔同前〕)、種々の舞曲を含む《サロン・アルバム》作品75など。演奏会用の華麗な作品では、オペラの主題に基づく幻想曲(作品6、18、50、93、99)、練習曲(作品46、65)があります。編曲作品にも作品番号をつけており、作品56、112は過去の大家の作品のピアノ独奏用編曲です。また、ロンドンでピアノ協奏曲を発表したとされるが、出版はされなかったとみられます。
ベルンシュタット出身のアウグスト・リッチウス(1819~1886)は声楽曲を主とした作曲家で、ピアノ曲は僅かである。「自由な時間に」(In freien Stunden)Op.38は12曲の小品からなり、「葬いの鐘」はその第11曲にあたる。穏健な書法ながら、ある種リアルな空気感を伝える力のある人だ。 もっと詳しく!
1819.2.26. ベルンシュタット生‐1886.6.4没
リッチウスが生まれたとされるドイツのベルンシュタットは、南ドイツにある同名の町とは異なる、ポーランド及びチェコと国境を接するドイツ東部の地域ラウジッツの街ベルンシュタット・アム・アイゲンです。彼は、早くから音楽的才能を示し、9歳の時には既に愛好家の父が所属する同地の楽団でヴァイオリンやフルートを演奏しました。同地の楽長シェーンフェルトSchönfeldという音楽家の指導を受け、ピアノ、オルガンも演奏するようになります。1833年、近隣の町ツィッタウに移り、同地のギムナジウムに通い、ここで文学を学ぶ傍ら、合唱協会に加わり、後に指揮を担当するようになります。この町で、彼はツィンマーマンZimmermannという音楽家から演奏の指導を受けたとされます。40年、リッチウスはライプツィヒ大学に入り、両親の意向に従って神学を専攻しました。しかし、音楽と学業の間で三年間逡巡した結果、音楽家になることを決意、独学で音楽の勉強を続け、音楽教師として生計を立てました。49年、リッチウスは同地のオイテルペ音楽協会の監督に選ばれ(この協会は、ゲヴァントハウス演奏会と共に同地を代表する音楽協会、24年に創設)、55年まで楽団を率いました。この年、リッチウスはユリウス・リーツJulius Rietz(1812~1877)の後任として、同地のコメディエンハウス(Comödienhaus)の指揮者に就任します。64年にはハンブルクのオペラ座で指揮者を務め、批評家としても活躍しました。
職業柄、リッチウスの創作の多くは声楽曲(歌曲、情景とアリア、カンタータ)、管弦楽(オーケストラのための序曲)に捧げられています。出版されたピアノ作品には以下のものがあります。連弾用作品:《カプリッチョ》へ短調 作品1、《アレグロ・アパッショナート》作品41、ピアノ独奏曲:、《5つの易しい性格小品》作品2、モシェレスの作品49と同名の《メランコリックなソナタ》作品16、《5つの旋律的作品》作品25、《2つの性格的作品》作品33、《自由な時間に――12の作品》作品38。