ピアノの19世紀

18 ピアノ音楽風土記 ピアニストの社会的地位 その1

2009/10/09

1 鍵盤楽器奏者の身分と地位

 音楽家の中でピアニストはどのような地位にあるのでしょうか。オペラ劇場の歌手や協会の合唱団員、オーケストラの団員とは明らかにそのあり方は異なります。そもそも、ピアニストという職業はどのように生まれたのでしょうか。
 音楽鍵盤楽器でも、オルガン奏者とピアノ奏者の意味も異なります。バロック時代ではオルガン奏者は早くから専門職として認められ、その職位は高い尊敬をもって見られていました。オルガン奏者は、オルガン演奏だけではなく、フーガを含む即興演奏やコラール前奏曲などの演奏など、作曲の高度な技能や、教会における教義やコラール(賛美歌)に関する教養などについても精通していることが求められています。さらに教会のカントールともなると、これは教会音楽で活動する音楽家であれば、目指す最高のポストで、そこでは比類なく高いオルガン演奏の才能が求められました。
 それでは同じ鍵盤楽器でもチェンバロはどうでしょうか。通奏低音楽器として合奏やオペラでは重要な役割を担う楽器ですが、オルガン奏者のもつステイタスとは性格は異なります。もちろん、教会音楽ではオルガン奏者は通奏低音奏者として加わりますが、チェンバロ奏者が合奏などで通奏低音奏者として果たす役割とは性格を異にしています。たしかにアンサンブルでは、チェンバロ奏者は、指揮者的な役割を果たし、低音を担当することからアンサンブルの和声を保証する任務を担っています。しかし、チェンバロ奏者には独立のパートは与えられていません。チェロなど低音楽器のパートを左手で奏し、右手は臨機応変に和声を支えていきます。
 チェンバロは、たしかに組曲集などで独立した作品が作曲されていますが、独奏楽器の花というべき協奏曲の作曲は非常に遅れます。バッハの《ブランデンブルク協奏曲》第5番が実質的に最初のチェンバロ協奏曲と呼ばれるほどに、協奏曲を担当する独奏楽器という認識が確立するのは遅れました。

 古典派に入り、通奏低音楽器という役割から開放されて、フォルテピアノが独立の楽器としてその歴史を刻むようになると、この楽器の性格はさらに変化していきました。宮廷楽団に所属していた間は、宮廷楽団員としての公的な身分が与えられ、定まった給与のほかに年金も支給されていました。しかし、まったく個人で活動する楽器奏者となりますと、この集団の恩恵を受けることは出来なくなります。教会や宮廷、さらに交響楽団という組織から離れた個人営業の音楽家がピアニストです。教会や宮廷、交響楽団では、入団試験や入団後の教育などの体制が整っていましたが、個人の場合は、個々の指導者と生徒の関係となり、一方では自由な音楽活動が展開されますが、専門音楽家としての資格も基準もなくなります。それは、19世紀市民社会の自由な空気の反映でもありますし、同時に、音楽家が「プロレタリアート」となったことの証でもあります。ピアニストは、組織によって身分と給与が保証されることのない、無産者労働者の象徴のようにも見えます。

 音楽の歴史のなかでいくつか大きな転換点があります。その一つは1730年代です。バッハが13曲ものチェンバロ協奏曲を作曲したことの意味は大でした。1曲を除いて編曲であったとはいえ、これらの作品によってチェンバロ奏者が表舞台に立つことができたからです。バッハがフォルテピアノを最初に試奏したのもこの時期です。そしてその次の転換点は1770年頃です。この時期からウィーンやロンドンなどの諸地域で、フォルテピアノの技術革新が急速に進むようになります。新型ピアノが新しい表現を開拓するものとして脚光を浴び、注文製造が増加するようになります。1768年にクリスチャン・バッハがフォルテピアノによる独奏の演奏会を開催しますが、これはピアノの独奏演奏会の最初と見られています。この演奏会は、ピアニストという職種が確立されてきたことを象徴しています。すでにこの演奏会以前に、エマヌエル・バッハの「正しいピアノ奏法」が刊行されていますが、ピアノの演奏法に関する書物の刊行も、ピアノ演奏の科学が求められてきたことの証です。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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