12 ピアノ音楽風土記 スペイン その1
スペインのピアノ音楽史は、近年とみに注目を浴びるようになってきました。とくに19世紀末から20世紀前期にかけてのグラナドス、アルベニス、ファリャという3人の作曲家だけではなく、ロドリーゴのピアノ作品のCDも話題を呼びました。
これら近代の作曲家が登場する以前のスペインのピアノ音楽事情はどうだったのでしょうか。18世紀前期においてはドメニコ・スカルラッティが活躍し、ピアノ音楽の先進的な役割を担ったスペインですが、その後の19世紀後半に至るまで、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-1826)にまさる作曲家は輩出していません。彼はパリでフェティスに師事し、瞬くまでに才能を開花させました。彼の弦楽四重奏曲はわが国でもCD発売され、非常に大きな評判を呼びました。比類ない独創性と透明な書法は、ドイツロマン派に強く彩られることなく、モーツァルトの古典主義がそのまま継承されたような印象を与えます。彼は交響曲や弦楽四重奏曲などを主要な作曲ジャンルとしていましたので、ピアノ作品はわずかに「3つの性格的練習曲」を数える程度ですが、十歳台にしてこれほどの才能を開花させた作曲家はこの時代に例を見ません。残念ながら彼は20歳で早世しています。そしてスペインはアリアーガを受け継ぐ才能を見出せませんでした。
スペインのピアノ音楽が本格的に開花するのは19世紀末から20世紀前期にかけて登場したアルベニス、グラナドス、ファリャを待たなければなりません。彼らを生んだ存在が、フェリプ・ペドレル・イ・サバテ(1841-1922)です。彼はスペイン・ルネサンスの巨匠ビクトリアの作品全集の編集刊行を手がけた音楽学者としても著名です。作曲家としてはほとんど名を残していませんが、彼が上に述べた3人の作曲家を育んだことそのことが、ペドレルの業績といっても過言ではありません。
スペインは、イスラムによる長い支配時代を経験し、また敬虔なカトリック信仰をもち、さらに、地域によって社会や文化が大きく異なることから、一つの国の文化として総括して述べることは難しい国です。アルベニスらの作曲家は、スペインのこの多様性を作品の中に生かそうとしていきました。
イサーク・アルベニス(1860-1909)はカタルーニャ地方のカンプロドン出身です。彼の代表作「スペイン組曲」を例に、スペインのどのような地域を描き出しているのか見てみましょう。作品は次の8曲からなります。1 グラナダ、2 カタルーニャ、3 セビリャーナス、4 カディス、5 アストゥーリャの伝説、6 アラゴンのホータ、7 セギディーリャ、8 キューバ。第1曲のグラナダはアンダルシア地方、第2曲は文字通りカタルーニャ地方、第3曲のセビリャーナスはセビリアを描いています。第4曲のカディスは大西洋を臨むアンダルシア地方の港町です。第5曲のアストゥーリャは北のピスケー湾を臨むアストリアス地方を描いており、第6曲のアラゴンはピレネー山脈の南に位置する地域です。ホータはこのアラゴン地方の民族舞踊で、ギター、カスタネットとタンバリンを用いて急速な回転をするのを特徴としています。第7曲のセギディーリャは、アンダルシア地方の民族舞踊で、これもカスタネットやギターを用います。そして終曲はキューバです。作曲者はどうしてこのようにさまざまなスペインの地域を描き出しているのでしょうか。それはスペインのナショナリズムと密接な関連をもっています。それと同時に、スペイン国内の多様な音楽文化に対する意識がこの時期に高まりをみせていました。
アルベニスのもう一つの代表作 組曲「イベリア」ではどうでしょうか。全4集からなる作品集は次の曲目になっています。第1集 エボカシオン、エル・プエルト、セビーリャの聖体祭。第2集 ロンデーニャ、アルメリーア、トリアーナ。第3集 エル・アルバイシン エル・ポロ、ラバビエース。第4集 マラガ ヘレス エリターニャ。
この組曲の第1集で、「エボカシオン」は魂の呼び起こしの意味で、スペインの魂を呼び起こしているのでしょう。「エル・プエルト」は港を意味し、アンダルシア地方の港町カディスを指しています。セビーリャはアンダルシアの都です。第2集の「ロンデーニャ」はアンダルシア地方の民謡です。「アルメリーア」はアンダルシア地方東南部の地名で、「トリアーナ」はセビーリャのジプシー居住区を指しています。第3集の「エル・アルバイシン」はアンダルシア地方のグラナダにあるジプシー居住区のことです。「エル・ポロ」はアンダルシア地方の民謡で、「ラバビエース」はマドリッドの下町の名です。第4集の「マラガ」はアンダルシアの港町です。「ヘレス」はアンダルシアの町の名でフランメンコが盛んな地域です。「エリターニャ」はセビーリャ郊外のレストランの名です。
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。