ピアノの19世紀

11 ピアノ音楽風土記  イタリア  その3

2009/06/26

 19世紀イタリアのピアノ音楽は、さまざまな意味でドイツ音楽の強い影響を受けざるを得なくなってきます。イタリアは確かにオペラの国で、ロッシーニやドニゼッティに始まり、脈々とオペラ文化は継承されていきます。しかし、そうした流れの中に、アルプスの北のオーストリアやドイツにおける器楽の影響から無縁でいることはできなくなってきます。

 オペラの国イタリアと、器楽の国オーストリア。この対比は18世紀末から19世紀前半の音楽の状況を考える上ではあながち極端な対比ではないでしょう。事実、ドイツ語圏の音楽では、なかなかオペラの本流と言うべき作曲様式が確立できていません。ウェーバーの「魔弾の射手」は大評判を取りましたが、この作品がすぐにオペラ創作の主流となったわけではありません。むしろ好まれたのは、グスタフ・アルバート・ロルツィンク(1801-1851)の、「ロシア皇帝と船大工」(1837年初演)のようなもっと軽妙な作風でした。

 一方、イタリアではオペラ一色に創作に次第に疑問を持つ作曲家も登場します。とくに、ピアノなど器楽に強い関心を持つ作曲家の中では、ソナタや変奏曲、あるいはフーガなどのさまざまな作曲形式に対する関心も高まっていきます。この傾向が高まるのは、19世紀も後半のことで、その背景には1859年のイタリア統一戦争や、その後の普仏戦争が何らかの影響を及ぼした可能性が考えられます。イタリアはオーストリアからの自国の独立を確立する上で、逆にオーストリア文化、さらにはプロイセン文化について意識せざるを得なくなっていったのです。

 そのなかで最初の重要なピアノ音楽作曲家が、ジョヴァンニ・スガンバーティ(1841-1914)です。彼はオペラ創作には背を向け、交響曲やピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、そしてピアノ作品に多大な勢力を傾注しました。彼の恩師はリストでした。これらの器楽作品の創作はリストからの影響抜きには語れません。しかし、ズガンバーティはリストだけではなく、改めてベートーヴェン移行のドイツ語圏の音楽にまなざしを向けてそれを創作に活かしていったのです。ズガンバーティのピアノ作品で創作が確認できるのは1873年以降の作品ですので、初期の習作は分かりませんが、「夜想曲」(作品3、c.1873)や、「前奏曲とフーガ」(作品6、c.1877)などが初期の作品に当ります。ピアノ曲の作品数はそれほど多くはありませんが、「組曲」(作品16.出版時には作品21)、「詩的な旋律」(作品29)などがあります。この後者の作品の刊行は1903年、ライプツィヒにおいてで、ドイツ音楽の影響とともに、遅咲きのロマン主義という感じもします。

 ズガンバーティに続くイタリアの器楽作曲家の巨匠はマルトゥッチです。ジュゼッペ・マルトゥッチも、他のイタリアの作曲家が専心するオペラには背を向け、器楽に専念した作曲家です。1856年に生まれて1909年に没したイタリアの作曲家で、1867年にナポリ音楽院に入学し、同音楽院でリストと競演したことで知られます。19世紀中ごろのヨーロッパ屈指のヴィルトゥオーソの一人タールベルクの弟子のチェジにピアノを師事し、彼はまずはピアノのヴィルトゥオーソとしてそのキャリアを確立しました。ピアノの奏者として活躍した後、彼の人生の転機となったのは1883年のヴァーグナーの死でした。マルトゥッチはヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイタリア初演を指揮しただけではなく、イタリアへのヴァーグナーの正当な導入者でもありました。しかし、彼はヴァーグナーだけに心酔していたわけではありません。ブラームスの音楽にも深く理解を示し、ブラームスのイタリア訪問時にはブラームスをその宿泊先に訪ねています。

 マルトゥッチのピアノ作品では、2曲のピアノ協奏曲がピアノ音楽の表現の点でも技巧の点でも秀でており、19世紀のヴィルトゥオーソ文化の継承者であることをはっきりと示しています。マルトゥッチのピアノ作品は、「ピアノソナタ」(作品34)のほか、「タランテラ」(作品44)、「ジガ」(作品61)、「舟歌」(作品64)、「2つの夜想曲」(作品70)などがありますが、「ジガ」などオーケストラ作品に編曲されている作品が多いのも特徴です。マルツゥッチのオーケストレーションはすぐれて情感にあふれ、時として官能的です。原曲は独唱とピアノのためのですが、その後オーケストラ伴奏用に編曲された「追憶の歌」のオーケストレーションはヴァーグナーの影響を感じさせるだけではなく、ドビュッシーをも予感させます。

 ピアニストとしての彼のレパートリーは、バッハやスカルラッティに始まり、特にシューマンやリスト、ショパンなどで、彼の作品における傾向と重なり合っているところがあり、バロック時代の表現とロマン派の性格小品の融合した姿が見られます。たしかに彼はリストやヴァーグナーから示唆を受けましたが、同時にブラームスをも深く敬愛し、ブラームスのイタリア旅行に際しては、彼と面会して、相互に意気投合しています。しかし、彼の音楽からはブラームスの語法はそれほど強くは感じられません。

 マルトゥッチのもう一つの顔はドビュッシーの理解者および受容者としての顔です。1888年に初演された「追憶の歌」にもすでに示されておりますが、語法的には共通する側面をもっています。そしてマルトゥッチは1908年、ナポリでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を指揮しており、これはこの作品のイタリア初演です。当時、イタリアではドビュッシーもこの作品もほとんどなじみがなく、この面でも開拓者としての役割を担いました。彼はイタイア・ロマン主義を代表する作曲家といっても過言ではありません。なお、レスピーギは若き時代にマルトゥッチに師事しています。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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