ピアノの19世紀

16 ノクターンとピアノ文化 フランス近代とノクターン その5

2009/05/01

3 サティとドビュッシー

  フォーレが晩年のノクターンを作曲していた20世紀前期にサティは5曲のノクターンを作曲しています。
サティがこの5曲のノクターンを作曲したのは以下の時期です。
    第1番から第3番 1919年3月
    第4番1919年10月 冒頭に「神秘的にやさしく」の指示
    第5番1919年11月
自作のノクターンについてサティは、ヴァランティーヌ・ユゴーに宛てて1919年8月24日の手紙でこのように言及しています。
 「第1番は前奏曲の役を果たします。もっと短い第2番はとてもやさしく、いかにも夜の想いをあらわしています。第3番はスピードがありドラマティックで、第1番より軽やかな夜想曲。この3曲でひとつの全体を形作り、私はこれに大変に満足しています。」
 同年8月21日に夜想曲第1番についてサティはユゴーにこう書いています。
 「これは私の一つの表現です。それはどんなものになるでしょうか。私は今心理状態の曲がり角にさしかかっており、決して楽しんではおりません。
 サティでは、ノクターンはサロンの音楽というよりも、彼自身の心象風景の表現となっているようです。

 ショパンの後継者という点では、ショパンの作品全集を校訂したドビュッシーのほうがサティよりもショパンの精神を継承しています。ドビュシーは管弦楽のための三曲からなる「ノクチュルヌ」を1899年に完成し、その翌年の1890年にピアノ独奏用の「ノクチュルヌ」を作曲しています。ノクチュンヌ(ノクターン)と題されていない作品においても、多くの作品でショパンのノクターンの精神を受けついでいると思われます。初期の「夢想」(1890年)も一種のノクターンとみなすことができるでしょう。
 その後、明確にはショパンのノクターンの痕跡は示さなくなるものの、ドビュッシーの創作の中で豊かに融合されていったと思われます。その表現の一端は、「バラード」や「ベルガマスク組曲」などの初期の作品のほかに、2集の前奏曲集にも見られます。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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