ピアノの19世紀

16 ノクターンとピアノ文化 19世紀を映す鏡としてのノクターン その1

2009/02/06

19世紀はピアノの時代と言ってよいでしょう。ピアノが広く普及するようになり、ピアノ人口も増大していきます。それに伴って18世紀とはまったく異なるピアノ文化が開花しました。このピアノ文化をもっとも象徴するジャンルは練習曲とともに、「ノクターン」ではないでしょうか。何回かのシリーズでこのノクターンの文化を考えてまいります。もちろん、ノクターンといえば、ショパンの名前が思い浮かびますが、このジャンルは、ショパンという個人の音楽様式ではなく、19世紀市民文化の音楽語法といった側面を持っています。そればかりか、緩徐楽章の思想や、ピアノ協奏曲との関連、演奏の場の問題、そして、ロシアとフランスにおける独自の発展など、考察すべきさまざまな要素を含んでいます。

 1  ノクターンの成立

(1)ノクターンの社会的な背景

ノクターンという曲種が音楽史に登場するのは、アイルランド出身の作曲家でピアニストのジョン・フィールド(1782-1837)の作品によってです。フィールドのノクターンは、ショパンに影響を及ぼしただけではなく、フランツ・リストも絶賛し、19世紀のピアノ文化のもっとも重要な一部を形成することになります。フィールドはクレメンティに師事し、イギリス・アクションのピアノをクレメンティのメトードで演奏する新しい演奏法をロシアにもたらした人物としてまず評価されなければなりません。つまり、ロシアのピアノ楽派はフィールドに始まるのです。サロンの寵児となったフィールドは、サロン用の音楽を手がけます。ノクターンのほかに、ロマンス、ディヴェルティスマンなどもサロン用の音楽に数えられます。
甘美で、夢見るようなノクターンが成立した背景には、18世紀音楽文化とは明らかに異なる19世紀独特の社会のアウラがありました。フィールドのノクターンには、背景となっているいくつもの土台があります。その最初の土台として注目されるのが、この音楽ジャンルを生み出したサロン文化であり、やがて台頭する市民階層の音楽愛好家でした。彼が最初のノクターンを作曲するのは1812年ですが、この時期はナポレオン戦争を境に社会の構造が大きく変質する時期であり、また音楽の趣味も変化を見せる頃でした。シューベルトが歌曲の創作を始め、最初の交響曲を作曲するのもほぼこの時期にあたっています。
ノクターンという甘美な音楽が期待されているのは、サロンや居間でした。この音楽表現が愛好されたのは、19世紀の社会的な環境が大きく関係しているのです。サロンでは、人々は音楽の鑑賞者であるだけではなく、自らが演奏者として参加することが多く、その点ではこのノクターンの平易な楽想はアマチュアのピアニストの要求にかなっていました。 ノクターンとサロン文化との結びつきは、創始者のフィールドだけではなく、その後、ショパンやフォーレにまで受け継がれた伝統でもありました。サロン文化こそが近代のピアノ文化のもっとも重要な要素でした。
 モーツァルトの時代でも音楽会は、貴族階級の屋敷で音楽会が行われていましたが、19世紀におけるサロン文化と18世紀社会は基本的に異なっています。19世紀の音楽文化の担い手は、貴族のほかに有資産階級の市民や音楽愛好家となっていきました。

(2) 遅いテンポの美学

ノクターンにおける、歌曲のような甘美な旋律は、ソナタの緩徐楽章の独自の発展形と言えます。ゆったりとした楽章は、ソナタでは急速なテンポによる第1楽章やフィナーレとのコントラスが重要な要素になっていました。ソナタではあくまでもソナタ形式による急速な第1楽章が主役です。しかし、緩徐楽章にはそれ自体で独立した表現と意味があるという見方が次第に確立していきます。遅いテンポの作品に積極的な美を見出したのが19世紀でした。もちろんバロック時代から、甘美な美を満喫させてくれる、ゆったりとしたテンポの名曲は数多くあります。しかし、19世紀は緩慢なテンポそれ自体に新たな価値を見出した時代でした。「遅いテンポ」にもっとも積極的な美学論を展開したのはヴァーグナーです。彼によると、遅いテンポは、遅ければ遅いほど深い情趣を表現できるとされ、それは宗教的な情趣を実現するとされました。ヴァーグナーも述べているように、ゆったりと深い情感を表現する「宗教的アダージョ」や「敬虔なレント」に、人々は深い感動を見出すようになっていきます。バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番前奏曲」を編曲したグノーの「アヴェ・マリア」などは、宗教的アダージョの一例でしょう。さらにこの遅いテンポの美学は、メンデルスゾーンの「無言歌」やグリークの「叙情小曲集」にも見られます。この遅いテンポの美をもっとも追求したのが、ノクターンでした。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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