09 都市のピアノ音楽風土記 コペンハーゲン その1
19世紀のピアノ音楽の歴史において、コペンハーゲンという都市はほとんど関心の対象とはなっていないように思われます。しかし、デンマークという国は強国で知られ、首都コペンハーゲンは高度な文化が開花した都でした。初期バロックでは、デンマークはザクセン王国と強い姻戚関係にあり、その縁でシュッツは一時、デンマークの宮廷楽長を務めていました。30年戦争の戦場にならなかったことから、デンマークは荒廃を免れただけではなく、その後の一連の継承戦争でもデンマークは消耗戦に巻き込まれることはありませんでした。しかし、1801年にイギリス海軍との戦争で敗れ、国際政治の表舞台から退きますが、それでも強い文化的な支配力をもち、19世紀初期はデンマーク・ノルウェー王国と称していました。
貿易港として知られたコペンハーゲンは北のノルウェーだけではなく、南のハンブルクなど北ドイツの文化の中心地でもありました。デンマークで活躍した19世紀前期でもっともよく知られている音楽家といえば、ソナチネの作曲で知られるフリードリヒ・クーラウ(1786-1832)でしょう。しかし、クーラウ自身はデンマーク人ではなく、ドイツ人です。クーラウが19世紀前期の音楽史に果たした功績はとても大きなものがあります。フレデリク王子の結婚式のために作曲したデンマーク語による劇の付随音楽「妖精の丘」(作品100)などの劇音楽のほかに、ピアノ協奏曲やフルート・ソナタやフルート四重奏曲などフルートのための作品に代表される室内楽、そしてピアノ作品を残しました。
19世紀前期のコペンハーゲンの音楽文化の水準は非常に高度でした。それをよく示しているのが音楽雑誌の点数と、その内容です。1789年から1830年までの期間にコペンハーゲンで刊行された音楽雑誌の数は13誌に上ります。この点数はパリ、ウィーンに次ぐものです。ピアノ音楽を専門にとりあげた雑誌は、ドイツやパリ、ロンドンとは明らかに異なった特色をもっています。
ピアノ音楽雑誌としては1795年創刊で1808年まで発行した「アポロ」、1805年創刊で1809年まで刊行された「北のアポロ」、1814年創刊で1827年まで発行された「ピアノのための新アポロ」が有力です。「アポロ」は13年間、「ピアノのための新アポロ」は14年間もの長期にわたって発行されたことは注目されます。というのは当時の雑誌は――現代も同様かもしれませんが――、発行期間が短いものが多く、10年以上の発行期間の雑誌数は限られています。これらのピアノ雑誌が長期間にわたって刊行されたことは、安定したピアノ音楽の受容層が存在していたことを示しています。
上記の雑誌のなかで残念ながら、1795年創刊の「アポロ」はまとまったデータがなくその内容が分かりません。ここではもっとも有力な「ピアノのための新アポロ」の内容からこの時代のピアノ音楽を垣間見て見ましょう。作曲家でもっとも頻度の多いのは、クーラウです。続いて、フェルディナンド・リース、ウェーバー、モシェレス、ヴァイゼ、ベートーヴェン、フンメル、ゲリネク、シュタイベルト、ドゥセック、イズアール、クラマー、カルクブレンナー、ライデンドルフ、リンダーマン、ロッシーニ、シュヴァルツ、バイ、ボワエルデュー、ブラウン、クンツェン等で、総数109名の作曲家の作品が取り上げられました。
これらの作曲家を見てどのようなことが見えてくるでしょうか。まず、クーラウという作曲家は、「ソナチネ・アルバム」でお馴染みの作曲家ですが、19世紀前期のデンマークにおいて高い評価を得た作曲家でした。イギリスやドイツでは、少なくとも19世紀前期では彼の名前の登場頻度は高くありません。彼の平易なピアノ作品が評価されたことは多くのことを語っています。これまでピアノ音楽風土記ですでにパリやロンドン、ウィーンを見てきましたが、コペンハーゲンの音楽雑誌の傾向は明らかにこれらの大都市とは異なります。オペラの編曲物でほとんどが占められているパリの状況や、リンターを筆頭に舞曲作曲家が大活躍するロンドンとも異なり、現在の私たちがその名を知っているクラシックの作曲家が数多く並んでいます。不特定多数のアマチュアの市場を対象としたパリやロンドンとは異なり、コペンハーゲンでは、中産階級を中心としたピアノ文化がしっかりと形成されていたことがここから分かります。
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。