ピアノの19世紀

08 都市のピアノ音楽風土記  ペテルブルク その3

2008/08/21

 1 アドルフ・フォン・ヘンゼルトとロシア

 ロシアのピアノ演奏の特色は、強烈で圧倒的な演奏技術とダイナミックな表現にあるといえます。ピアノ全体が鳴り響く強靭なメカニックはどのような系譜から生み出されたものでしょうか。リスト のヴィルトゥオーソの演奏技術は有名ですが、19世紀は個性的なヴィルトゥオーソが数多く輩出した時代で、彼らはその名声を競いました。ロシアにおいて大きな足跡を残したのがアドルフ・フォン・ヘンゼルト (1814-1889)です。卓越したピアノ演奏技術の点ではリストに劣らないヴィルトゥオーソですが、自己顕示欲の強い数多くのヴィルトゥオーソとは異なり、とても控えめな人物で、彼は舞台の上でヴィルトゥオーソの技術を披瀝することは好みませんでした。しかし、シューマン が高く評価したように優れた音楽家で、シューマンの作品のよき理解者でした。
 ヘンゼルトは1836年、ロシアに移り住み、1838年ペテルブルクに居を定めます。このころにはロシアの音楽活動は非常に活況を呈していました。フランス革命の起こった1789年から7月革命の勃発した1830年までの時期の音楽雑誌の刊行を見ますと、ペテルブルクでは13誌が刊行されています。この時期、もっとも発行雑誌の多いのがパリで43誌、ついでウィーンの40誌ですが、ペテルブルクはコペンハーゲンと並んで第3位に位置しています。このことはペテルブルクでは音楽情報を求める人々が数多くいたことを示しています。もちろん、雑誌の規模や刊行期間などの問題もあり、一概にはこの雑誌数だけでは論じられません。事実、ピアノ雑誌を見ますと、この時期に刊行されたペテルブルクの雑誌で、4年以上の期間にわたって刊行されたものはありません。このことから、ピアノ音楽の専門雑誌に関してはまだこの時期はそれほどの読者はいなかったのかもしれません。
 ヘンゼルトのロシアでの活動についてはあまり詳細なことは分かっておりません。ヘンゼルトの名前は、とくにシューマンの手放しの絶賛記事を通してヨーロッパのある程度の地域には広まっており、彼の作品も高い評価を得ていました。ヘンゼルトの作品でとくに評価が高かったのは、「演奏会用の12の性格的練習曲」(作品2)でした。とくにその第6曲「もしも小鳥があなたのもとに飛んで生きたい」は、大変な評判をとり、批評の中で絶賛しています。
 ヘンゼルトはフィールドに続いて、ロシアに長期間にわたって滞在したヴィルトゥオーソですが、ロシアのピアノ演奏のメトードはおそらくこのヘンゼルトによって培われた部分が大きいと思われます。ロシアは、西洋におけるような市民社会の形成が遅れ、富のある特権的な人々に経済だけではなく、音楽も独占されていたために、社会のもっとも狭い範囲で音楽が純粋培養されることになったと思われます。
 ロシアのピアノ音楽は、甘美なリリシズムと同時に、圧倒的なヴィルトゥオーソを特徴としています。ロシアのヴィルトゥオーソは、単にその劇的で表現だけではなく、ピアノの奏法とも関連しています。その後、チャイコフスキーアントン・ルビンシテインラフマニノフ に連なるこの系譜は、おそらくこのヘンゼルトに重要な源流があります。19世紀ドイツは、ピアノのヴィルトゥオーソをもっとも礼賛した国でした。その代表がリスト です。しかし、ヴィルトゥオーソはリストだけではなく、非常に個性豊かなピアニストおよびピアノ音楽の作曲家を数多く活躍しました。その一人がヘンゼルトでした。ヘンゼルトには、一日16時間をピアノの練習に費やしたとの逸話が残されています。このエピソードの真偽のほどはともかく、エチュードと名人芸にとても大きな関心が寄せられたのがこの時代です。
 ヘンゼルトの卓越した演奏技巧はリストも一目置く存在で、彼の作曲したピアノ作品からも分かるように、聴衆を圧倒するような華美な技巧を誇示するのではなく、あたかも歌うような甘美な叙情性は独特です。「ビロードの手」をもつピアニストとも称されたヘンゼルトは、アントン・ルビンシテインの後任としてペテルブルク音楽院院長も務めており、ラフマニノフもヘンゼルトを高く評価していました。ヘンゼルトの作品は近年、CD化がいくつか行われており、その偉大な足跡が明らかになってきていますが、彼こそが現在に至るロシアのヴィルトゥオーソの系譜の出発点に位置しているのです。

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西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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