07 都市のピアノ音楽風土記 プラハ その1
19世紀のピアノ音楽史においてボヘミアの首都プラハの果たした役割は大きいものがありました。オーストリアとウィーンの音楽活動を真の意味で裏から支えたのはボヘミアの音楽家であり、それはウィーンにとどまらず、ベルリンやドレスデンなどドイツの諸都市においても同様でした。
チェコは小さな国ですが、複雑な内情を抱えています。第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアと言いましたが、チェコとスロヴァキアは言語も文化も異なり、そのため1993年に分離独立して別個の国になっています。チェコもボヘミアとモラヴィアからなり、それぞれ異なった文化伝統をもっています。ここではチェコのとくにボヘミアを中心に取り上げていきたいと思います。
17世紀以来、チェコの数多くの音楽家がドイツ語圏で活躍したのには歴史的な背景がありました。17世紀初め、ボヘミアのほとんど人々が信仰していたプロテスタント教徒はカトリックのハプスブルク家に対して抵抗し、30年戦争(1618年?1648年)の緒戦となったピーラ・ホラ(白山)の戦いが起こります。しかし、ボヘミアはフェルディナンド二世の率いる軍隊にあっけなく敗北し、この国がカトリック化を強いられるとともに、ハプスブルク家の属国となり、ドイツ語を公用語とすることを余儀なくされました。かくして、ボヘミアはドイツ語文化圏と密接な結びつきをもつようになりました。
ドイツで宮廷文化が一斉に開花した18世紀において、チェコの音楽家は幅広い活躍を見せました。ベルリンで活躍したベンダ一族やドレスデンで活躍したゼレンカ、マンハイムで活躍したシュターミッツ(スタミツ) 一族など、音楽の歴史にその名を残した数多くの音楽家がいます。さらに、100曲に近くの交響曲を作曲し、100曲以上の弦楽四重奏曲を作曲し、ミサ曲などの宗教音楽でも偉大な足跡を残したヤン・ヴァンハル(1739-1813)は、ピアノ音楽の領域でも足跡を残しています。彼のピアノ小品は、市民文化が隆盛を迎えつつあった当時の人々に迎え入れられました。
少年時代のベートーヴェン とともにボンにあるケルン選帝侯宮廷楽団に所属したアントニン・レイハ(1770-1836)も、叔父でこの宮廷楽団の楽長を務めたヨゼフ・レイハ(1752-1795)とともに、チェコの出身の音楽家です。アントニンはその後、パリに移り、現在のパリ音楽院の作曲教授となり、広い尊敬を得ることになります。ウィーンではボヘミアの隣のモラヴィア出身で、交響曲や室内楽作品で知られるフランチェシェク・クラマールシュ(フランツ・クロンマー、759-1831)、ボヘミア出身で1792年にモーツァルト の後任としてウィーンの宮廷作曲家となったレオポルト・コジォエルフ (1752-1818)などが活躍しました。しかし、何と言っても18世紀末から19世紀前期にかけてのピアノ音楽でもっとも重要のチェコの音楽家は、トマシェク とヴォルジーシェク でしょう。
ヤン・ヴァツラフ・トマシェク(1774-1850)は、すぐれたピアノ音楽の作曲家そして教師として名声を得た音楽家です。ピアノ作品で重要なのは《6つの牧歌》(作品35) に代表される42曲もの《牧歌》です。これらの作品は初期ロマン派のさきがけとして注目されます。彼の柔和な音楽作品を評価したのは、プラハというよりも、ピアノを家庭に所有するドイツ語圏の中産階級でした。若き時代のトマシェクが音楽教師を務めたゲオルグ・ブクオイBuquoy伯爵は、プラハにも居所を構えていたことから、トマシェクは故国で活動することが多く、プラハを代表するピアノ音楽の作曲家としての名声も獲得していきます。また彼は、音楽批評家のハンスリックが師事したことでも知られています。トマシェクは、1798年、プラハを訪れたベートーヴェンの演奏を聴いており、トマシェクは自身の著した「回想録」のなかでベートーヴェンの即興演奏に魅了された旨を記しています。
多少込み入った人間関係に立ち入りますが、トマシェクはチェコの国民楽派の礎石としての役割も担っています。トマシェクの弟子にヨゼフ・デッサウアー(1798-1876)というボヘミア出身の作曲家がいます。デッサウアーは、プラハ音楽院で師事した作曲家のベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェーバー(1766-1842)とともにボヘミア民謡収集を行い、「ボヘミアにおける音楽振興教育団体」の共同設立者でした。ヴェーバーは、プラハ音楽院の創立者の一人で、1810年にボヘミア音楽振興団体が設立され、これが音楽院へと発展することになります。
19世紀初期のプラハは国民主義の高まりをみせており、その中心的な人物が歴史家で政治家でもあったフランツィシェク・パラツキです。トマシェクはこのパラツキと交流をもっており、デッサウアーはトマシェクを通してパラツキを紹介されています。そしてパラツキを通してトマシェク、さらにデッサウアーはチェコ国民主義の思想をもつようになります。パラツキはチェコの国民劇場の創設にかかわりチェコ語のオペラや演劇上演を進める努力をし、1845年にはパラツキを代表者としてボヘミア議会にチェコ語劇場開設の請願がだされます。そして1848年、ウィーンで「3月革命」が起こり、メッテルニヒ体制打倒の嵐が吹き荒れると、それに連動してチェコでもオーストリア・ハプスブルク家に対する民族運動が起こります。このとき、パラツキは国民会議議長、憲法制定議会の議員、スラブ民族会議の議長に就任します。若き作曲家のスメタナもこの運動に加わっており、「プラハ学生部隊行進曲」などの作品を作曲しています。しかし、デッサウアーがこの革命でどのような役割を担ったのかは分かりません。彼はその後パリに活動の場を移し、オペラの作曲家として活躍します。パリでの活躍の時期にショパン とも交流を結び、《ポロネーズ第1番》と同第2番(作品26) を献呈されています。
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。