06 都市のピアノ音楽風土記 ライプツィヒ その2
バッハ がカントールをつとめた聖トマス教会付属学校は、バッハが没し、バロック時代から古典派に移行する中で、非常に興味深い音楽活動を行っていました。この学校での演奏活動の一端は、「ベルリン音楽新聞」に掲載された記事からうかがい知ることが出来ます。聖トマス教会では、バッハの時代は教会暦に従って、カンタータの演奏が行われましたが、バッハが没して半世紀以上も経過した19世紀初期では、宗教音楽に加えて、協奏曲や交響曲などの多彩な演奏曲目が取り上げられました。次に1804―05年の演奏曲目の概略を紹介しましょう。
1804年 | 11月6日 | ミューリンク | ヴァイオリン協奏曲 |
ハイドン | 「天地創造」から「ハレルヤ」 | ||
11月13日 | ハイドン | モテット | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲イ長調 | ||
ナウマン | 詩篇第3番 | ||
11月20日 | バッハ | モテット | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲ハ長調 | ||
シュスター | ブラヴーラ・アリア | ||
ローデ | ヴァイオリン協奏曲 | ||
ツムシュテーク | カンタータ | ||
11月27日 | クロンマー | ヴァイオリン協奏曲 | |
ツムシュテーク | カンタータ | ||
12月4日 | モーツァルト | ピアノ協奏曲ハ長調 | |
ハイドン | ミサ曲 | ||
12月11日 | ハイドン | ミサ曲 | |
ヘンデル | 詩篇100番 | ||
12月18日 | モーツァルト | レクイエム | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲 第9番 | ||
ロード | 変奏曲 | ||
1805年 | 1月15日 | リギーニ | ミサ曲 |
ミュラー | ピアノ協奏曲第1番 | ||
1月22日 | ロンベルク | 交響曲 | |
ツムシュテーク | カンタータ | ||
1月29日 | ベートーヴェン | 序曲 | |
ミューリンク | ヴァイオリン協奏曲ト短調 | ||
ハイドン | 「四季」から「秋」 | ||
2月5日 | ハイドン | 「四季」から「冬」 | |
ベートーヴェン | ピアノ協奏曲ハ短調 | ||
2月12日 | ハイドン | 「四季」から「春」 | |
2月19日 | ハイドン | 「四季」から「夏」 | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲ニ長調 | ||
2月26日 | バッハ | モテット | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲イ長調 | ||
ツムシュテーク | カンタータ | ||
フォーグラー | キリエ、グロリア | ||
3月5日 | ナウマン | 詩篇第96番 | |
ミューリンク | ヴァイオリン協奏曲第2番 | ||
ツムシュテーク | カンタータ | ||
3月26日 | ヘンデル | メサイア(モーツァルト編曲) | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲イ長調 | ||
4月2日 | モーツァルト | 交響曲 | |
モーツァルト | ピアノ協奏曲第1番 | ||
モーツァルト | カンタータ |
この年度のトマス学校演奏会の演奏会は、基本的に毎週行われていたことがわかります。この資料からも分かるように、まさにバロック時代にバッハが聖トマス教会でカンタータの演奏を教会暦に従って基本的に毎週行っていたように、演奏会が開催されていました。バロック時代は毎週カンタータが演奏されていました。そして半世紀以上を経過した19世紀前期では、宗教音楽に加えてモーツァルトのピアノ協奏曲が盛んに演奏されています。このことはこの時代の音楽史を考えた場合、とても興味深い事柄を語ってくれています。それはライプツィヒならではの出来事といえるかもしれません。
バッハのモテットが演奏会で取り上げられているように、ライプツィヒはバッハ再認識の最初の役割を担った町でした。1801年にビューロー・ド・ミュジク社(現在のペータース社)が、ネーゲリ社やジムロック社とともに「平均律クラヴィーア曲集」を刊行し、その後、バッハの鍵盤作品集の刊行を開始しました。そしてブライトコップ社がモテット集の刊行を行います。ライプツィヒこそがバッハに最初に注目した町でした。
バッハ以上に注目されるのがモーツァルトです。1791年にウィーンで没したモーツァルトの作品は死後、どのように評価されていたのでしょうか。生前から、モーツァルトのピアノ協奏曲に対する人気は下火になり、彼は予約演奏会を開催することが困難になっていました。そして彼の死後、ウィーンでモーツァルトの協奏曲がどれほどの頻度で演奏されたのでしょうか。おそらくモーツァルトが亡くなった後、モーツァルトの作品をおそらく最も早く演奏会で取り上げたのは、このライプツィヒの聖トマス学校演奏会でした。
11月から4月までの期間にモーツァルトのピアノ協奏曲が8回も取り上げられ、そのほか、「レクイエム」や「交響曲」も演奏されており、モーツァルトの連続演奏会の色彩すら帯びています。しかも、これほどの大作が毎週のように演奏されていることも驚異的です。オーケストラの練習も、ピアニストの手配なども考えた場合、この町には大変な音楽的な土壌があったことを示唆しています。
このモーツァルトの受容は、ヒラー とその後任者のミュラーの指導力が背景になっていますが、彼らの努力だけでは実現できる事柄ではありません。ライプツィヒという都市の音楽能力そのものが高かったことに加えて、いち早くモーツァルトの作品を正当に理解し、受け入れることが出来た点も注目しなければなりません。
そのほかにもライプツィヒが音楽の歴史において果たした役割はとても大きなものがあります。たとえばベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の初演が行われたのはウィーンではなく、このライプツィヒでした。
《目次》
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。