ピアノの19世紀

05 都市のピアノ音楽風土記  ベルリン  その1

2008/03/14

 ベルリンはピアノの発展の歴史において面白い役割を担いました。大バッハ が試演したことで知られるゴットフリート・ジルバーマンのフォルテピアノをいち早くとりいれた宮廷が、ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷でした。ジルバーマンはそれに先立ち、彼はクリストフォリのフォルテピアノをもとに試作した楽器についてバッハの意見を仰いでおり、少なくともバッハは1730年代にはこの楽器を知っていました。バッハの助言に基づいて改良したジルバーマンのピアノに深い関心を寄せたのが、音楽をこよなく愛し、自らフラウトトラヴェルソを演奏する大王でした。フォルケルの著したバッハに関する最初の伝記「バッハ評伝」によりますと、「大王はジルバーマンが造ったピアノがたいそう気に入り、それを全部買い上げるように企てたほどでした。大王はピアノを15台集めました」と記されています。ゴットフリート・ジルバーマンの製作したピアノは現在3台、残されていますが、そのうちの2台はフリードリヒ大王が注目したものでした。1747年、ベルリンの大王のもとを訪れたバッハは、このピアノを用いて、「音楽のささげもの」の一部を即興で演奏したといわれています。こうして、ベルリンはほかの町に先駆けてピアノを取り入れた町になりました。  18世紀ベルリンは、フランス文化が花開くプロイセンの首都でした。ベルリン宮廷はカルヴァン派を信仰したことから、1685年のルイ14世によるユグノー教徒(カルヴァン派)追放令で追放された大勢のフランス人がこのベルリンに移り住みました。18世紀のベルリンでは、フランス・バロックの音楽がピアノで演奏されていた可能性もあります。
 市民文化が花開いたロンドンやパリと、ベルリンは都市の趣を異にしていました。小邦分立状態にあったドイツでは、産業化は遅れ、産業都市の発達にも時間を要しました。プロイセンの首都といってもこの都市の人口の多数を示すのは軍人とその家族、貴族、国家と密接なむすびつき持つ産業人でした。そのために舞曲が市民の娯楽となったそのほかの大都市とは都市の傾向が異なりました。
 ベルリンでもっとも注目されるのは、有産階級や軍人などを対象としたサロンです。「ベルリン・サロン」という書物も刊行されていますが、ベルリンのサロンは、パリのサロンとも一味違った独特の文化の担い手でした。そしてベルリンのサロンを主催したのは、多くは資産家のユダヤ人で、一部にフランス人の女性もおりました。それに対して、ルター派を信仰するドイツ人女性がこのサロンを主催するということはほとんどありません。それはプロテスタント的倫理観がつよく影響していたと見られています。
 パリでもそうですが、サロンを主催するのは一般に女性です。ベルリンのサロンの華となったのも女性です。たとえば次のような女性が主催しました。ザーラ・レーヴィ(メンデルスゾーンの祖母の妹)、グロートフース男爵夫人(銀行家の家系)、アマーリア・ベーア(マイヤーベーアの母)、ファルンハーゲン(商人の家系)、ヘンリエッテ・ゾルマー(ファルンハーゲンの親戚)、ミンナ・マイヤーベーア(マイヤーベーアの妻)ファニー・ヘンゼル(マンデルスゾーンの姉)、ファニー・レーヴァルト(商人の家系)、クラーラ・クーグラー(財閥の家系)、バベッテ・マイヤー(銀行家の家系)。  ベルリンの音楽文化とサロン文化を考えるとき、これらの女性の主催するサロンが深い結びつきを持ちました。ところで上記の女性はすべてユダヤ系の人々です。ここがベルリンの都市文化の面白いところです。ヘンリエッテ・フォン・クレヤン夫人のサロンもとても有名ですが、彼女はカルヴァン派のフランス人でした。フランス人といえば、ホフマンのオペラ「ウンディーネ」の台本を書いたフーケや、シューマンの「女の愛と生涯」の詩を書いたシャミッソーもフランス人で、彼らもベルリンに逃れた人々でした。
 このようにしてベルリンのピアノ文化は第一にサロンのなかで育成されることになります。ベルリンにはシュレジンガー社という有力な出版社があり、ショパン の作品のいわゆるドイツ版は同社から刊行されましたが、少なくとも19世紀初期は、ベルリンの町は音楽的に見た場合、まだ途上の状態でした。1789年から1830年の間に刊行された音楽雑誌をみてみますと、ベルリンはわずか4誌にとどまります。同時期のパリが43誌、ウィーンが40誌と比較しても分かるように、まだ十分に市民文化が開花していませんでした。この時期のベルリンで比較的よく読まれたのは「ピアノと歌唱月刊誌」で1803年に創刊されましたが、1806年には終刊となっています。
 19世紀初期のベルリンでもっとも注目されるのは作曲家のヨーハン・フリードリヒ・ライヒャルトが1805年に創刊した「ベルリン音楽新聞」でしょう。ただし、この新聞はその新聞名にも記されていますように、ピアノを専門としたものではなく、音楽の全分野を扱ったもので、各地の情報なども掲載された総合新聞です。1798年にライプツィヒで創刊された「音楽総合新聞」のベルリン版と言えます。この新聞の具体的な内容については次回、ご紹介しましょう。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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