02 都市のピアノ音楽風土記 ロンドン その2
イギリスのピアノ産業とピアノ音楽
前回、イギリスの音楽雑誌で「季刊音楽雑誌・批評」まで紹介しました。この雑誌の終刊と入れ替わる形で1828年に刊行が始まったのが、「ハルモニコン」と「音楽の宝石」というタイトルを持つ雑誌です。ともに長い刊行期間を誇った雑誌で、ロンドンの音楽生活における貴重な情報源となっていたものと思われます。
すでに18世紀末からその兆候は現れておりましたが、19世紀前期のイギリスにおけるピアノ音楽を考える場合に、二つの要素が重要でした。ひとつはドイツやオーストリアの音楽の受容です。そしてもうひとつはイギリスの作曲家の作品です。ドイツやオーストリアの作曲家の作品への人気と受容は根強いものがありました。たとえばハイドン やモーツァルト も訪れて、強い印象を受けたロンドンのヴォックスホールなどのプレジャー・ガーデンで盛んに演奏されていた音楽の作曲者には、カール・シュターミツ やイグナツ・プレイエル などの作曲家の名前が見られます。このプレイエルは1800年ごろのイギリスでは非常に好まれていました。
ドイツやオーストリアの一流作曲家のシリアスな作品への受容は非常に強かったのと同時に、イギリスは大衆文化が開花した国でもありました。そこで、面白い現象が生まれます。18世紀末から19世紀前期にかけてイギリスは民謡が大変な人気を博していました。そこでイギリスの出版社のトムスンは、まずハイドンに民謡編曲を委嘱し、その後、ベートーヴェン、さらにウェーバー に民謡編曲を委嘱するのです。ハイドンは総数で346曲もの民謡を編曲しています。その内訳はスコットランド民謡編曲273曲、ウェールズ民謡60曲、アイルランド民謡1曲、キャッチとグリー12曲です。ベートーヴェンも数多くの編曲を手がけ、総数179曲に及びます。内訳はハイドンと同様ですが、スコットランド民謡だけではなく、アイルランド民謡も57曲も手がけられており、ウェールズ民謡も26曲に及びます。ベートーヴェンの民謡編曲には、日本では「蛍の光」で知られる旋律編曲も登場します。このような民謡ブームと大衆化は音楽雑誌で紹介される作品や新譜案内に反映することになります。1828年創刊の「ハルモニコン」は、人々の関心の変質をよく示しています。ピアノ曲でもっとも多いのが各種の編曲であるというのはさておいて、変奏曲、ロンド、ワルツ、ディヴェルティメント、ポロネーズと続きます。ここで注目したいのはロンドとワルツです。ロンドは1820年代から30年代のウィーンでも人気のジャンルでした。ワルツはレントラーからいわば進化した舞曲のなかでオーストリアにおいて人気の舞曲で、その最初の重要な作曲家がシューベルト ですが、ロンドンではすでに同じ時期にワルツが高い人気を獲得していました。作曲家でもっとも人気が高いのが、奇妙なことに、あるいは驚くべきことにチェルニーなのです。チェルニーという作曲家は練習曲の作曲家というイメージで定着していますが、彼は非常に質の高い交響曲も作曲し、もしかしたら一流とはいえないかもしれませんが、有能な作曲家であったことは間違いありません。この雑誌の読者の間ではチェルニーがロンドンでもっとも人気の高い作曲家であったということは今後のチェルニー再評価の重要な証拠といえましょう。ついでフンメル、イギリス人のカルキン、と続きます。
「ハルモニコン」より1年送れて創刊された「音楽の宝石」は、より大衆的な音楽雑誌であったようです。以前にも書きましたが、この時代を論じる場合に、社会階層という視点が重要です。その観点から見ると、この「音楽宝石」の読者は「ハルモニコン」の読者とは異なっていたように思われます。というのは登場する作曲家も音楽のジャンルもまったく異なるからです。この雑誌でもっとも頻度の高い作曲家はリンターという作曲家です。今日、音楽史上では完全に消えてしまった作曲家です。ついでエルツ、ミュサール、ジュリアン、グロヴァーという作曲家が続きます。これらの作曲家の名前から推測されるように、エルツを別とすると知られていない作曲家ぞろいです。そして作品で圧倒的多数はカドリーユです。ついでワルツ、ポルカ、行進曲、ギャロップと続きます。
この音楽雑誌は23年間に渡ってイギリスのピアノ愛好家の情報元であったことを考えると、イギリスにおける大衆文化の浸透が見て取ることができます。10年間は「ハルモニコン」がこの雑誌と並行して刊行されていましたので、この時期のイギリスの二つの傾向の音楽読者がいたと想定することができます。つまり変奏曲やロンドなどを愛好する、おそらく保守的な中産階級が一方であるとすると、カドリーユなどの舞曲に傾倒する人々が他方です。カドリーユに続いて、ジャンル名のはっきりしているものを書き足せば、ポルカ、行進曲、「ギャロップ」と記されています。
《目次》
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。