ピアノの19世紀

01 楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その2

2007/10/26
01 楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その2

ピアノ・ソナタの変質

 18世紀後半にピアノ音楽の文化が確立してきますが、19世紀の特にウィーン会議の時期つまり1815年頃を境にピアノ音楽の傾向が急に変化を見せます。前回、ウィーンの楽譜出版の傾向について取り上げましたが、ピアノ・ソナタが急激に市場価値を失っていき、ピアノ・ソナタの出版点数は1830年代ともなりますと一桁にまで下落していきます。それではいったい誰のためのピアノ・ソナタが作曲されたのでしょうか。もちろん、リストの、「ピアノ・ソナタ ロ短調」のようにヴィルトゥオーソが演奏したものもあります。しかし、リストが作曲したピアノ・ソナタはたった1曲で、ヴィルトゥオーソを誇示するにしては作品数が少なすぎます。
1830年代以降ともなりますと、当時の人々の目にはピアノ・ソナタは歴史的な使命が終わったジャンルとみなされていました。ピアノ・ソナタは書かれ続けますが、その多くは若手の作曲家が古典的な教養を身に着けたことの証しとして作曲する場合がほとんどです。若手の作曲家は、、ベートーヴェンなどのスタイルを取り入れて古風でオーソドックスなピアノ・ソナタに「作品1」という作品番号を与えて、音楽界にデビューするのです。リヒャルト・ヴァーグナーの作品1はピアノ・ソナタですし、ブラームスの作品1もピアノ・ソナタで、彼らはこの作品によってデビューを果たしたのです。
 ピアノ・ソナタが音楽教育の世界でいかに衰退していったのかは、当時のさまざまな雑誌記事から見て取ることができます。1810年代からピアノ・ソナタの衰退は始まっており、作曲家で音楽学者のフェティスは、「最近、ソナタの人気がなくなった。音楽を毒している趣味の不毛さはこの真面目な形式を、ファンタジーとか、エール・ヴァリエとか、カプリッチョなどの軽い種類の音楽に置き換えてしまった」と嘆き、1825年の「ベルリン音楽新聞」は、「ソナタという名称は多くの人々にとって、気後れするものとして捉えられている。というのは、ソナタは非常に時代遅れのもので、とても退屈なものと理解されているからである」と記しています。そしてピアノ・ソナタに代わって愛らしい性格小品が世にあふれるようになるのです。それではなぜピアノ・ソナタは市場価値を失っていったのでしょうか。


女性とピアノ

 19世紀になってピアノ音楽のレパートリーが大きく変質していった理由として指摘できるのは、音楽のアマチュア、とくに女性の音楽人口の増大です。18世紀のたとえばモーツァルトの時代ですと、ピアノ演奏は、貴族のたしなみで演奏されることは多かったにせよ、多くは職業演奏家の手にゆだねられていました。しかし、市民の家庭にピアノが進出するようになり、自宅に特別室としての「居間」が設けられ、こぎれいなビーダーマイヤー調の家具と並んで、ピアノが置かれるようになりますと、ピアノは家族の楽しみの一つとなっていったのです。そこで好まれたのは難解なピアノ・ソナタではありませんでした。そして、ピアノ演奏の主役は女性の手に委ねられていくことになります。19世紀の市民社会において、女性のたしなむべき用件にピアノの演奏も加えられていきますが、女性に男性顔まけにピアノ・ソナタを演奏することは求められていませんでした。後に別の章で取り上げますが、ピアノは完全に女性のたしなみの一部とされ、音楽学校のピアノ専攻のほとんどが女性で占められる現象は、19世紀の社会のあり方に深く根ざしたものでした。  アマチュアや女性がピアノの主役となりますと、これらの人々を対象とした音楽作品が求められます。膨大な数の、愛くるしいタイトルの性格小品が大量に作曲された背景には、アマチュアのピアノ人口の増大が密接に関連していました。サロンでの夜会ではさかんにピアノの演奏が行われておりましたが、多くの絵にも描かれているように、サロンの華は女性でした。そもそもサロンは、有名なマリー・ダグーのサロンを例に挙げるまでもなく、多くは女性が主催していたのです。


都市による音楽趣味の違いとピアノ文化の多様性

 好まれる音楽の種類は、都市によって何か相違や傾向があるのでしょうか。つまり、今日とは異なり、グローバリゼーションが浸透していない19世紀では、都市ごとの文化や社会の相違は非常に大きく、営まれている音楽の種類や傾向もきわめて多彩だったからです。さらに、ピアノの楽譜出版はピアノの普及と不可分の関係にありました。ピアノが普及するのは、富裕な中産階級の多く住む大都市です。それぞれの都市ごとにピアノの普及の度合いはかなり異なっていたと見られます。というのは、ピアノの生産台数がまだ限られており、値段も高価でした。ピアノを購入することのできる購買層は、今日と比較しますとはるかに薄く、限られていました。
19世紀前半について見ますと、最大のピアノ製造台数を誇ったのはイギリスです。そしてついでフランスでした。ベートーヴェンにつづいて、シューベルト、シューマンなどを輩出したドイツやオーストリアは、ピアノの製造台数の点では、イギリスやフランスと比べますとずっと遅れていました。1850年の時点でも、イギリスは2万3000台のピアノを製造し、フランスも1万台を製造していたのに対して、ドイツは1万台に及びませんでした。その点、アメリカの方がドイツよりもピアノの製造台数は多かったのです。ドイツでは少人数の工房でピアノが製造されていたのに対して、ロンドンのブロードウッドなどの工場では、すでに近代的なマニュファクチャー(工場制手工業)が行われており、ドイツよりも生産性が上回っていました。
 この普及の度合いの違いは、国内の産業の進展状況や産業を土台とした市民社会の形成の相違にもよっています。次回以降、都市ごとにピアノ音楽の普及を見ていくときに深く取り上げますが、ピアノ音楽の文化が都市によってかなり異なることになります。
 このピアノ文化の内容を知る上でもっとも手がかりになるのが、それぞれの都市で刊行されていた音楽雑誌です。音楽雑誌にはさまざまな形で新譜案内が掲載されています。その楽譜案内から、どのような音楽が好んで演奏されていたのかをかなり具体的に知ることができるのです。大衆文化が花盛りのロンドン、オペラなどの舞台芸術が人気を博していたパリ、貴族階級の支配するサンクトペテルブルク、小都市が点在するドイツの諸都市、そして比較的裕福な市民階層が形成されていたストックホルムやコペンハーゲンなどの都市では音楽の営み方が異なり、ピアノ音楽の傾向が異なるのです。

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西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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