01 楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その1
01 楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その1
音楽雑誌の登場 19世紀前期のヨーロッパにおいてどのような作品が作曲され、享受されていたでしょうか。18世紀ではリスム(RISM)という資料によって出版楽譜の全貌を知ることのできるのに対して、19世紀の音楽状況は、現在も事実上、闇の中にあるといっても過言ではありません。19世紀になると、ピアノの製造台数が増大し、それに比例してピアノ人口が爆発的に増大していきました。そしてピアノ人口の増大は楽譜出版に反映することになります。 19世紀にはいると明らかに楽譜出版の様相が一変します。それは音楽雑誌に掲載された新譜案内を一瞥すると明らかです。さまざまな種類の楽譜がぎっしりと掲載され、そして主な作品には、作品の聞き所や演奏の面白さなどがとても具体的に記載されています。1798年に創刊された「音楽総合新聞」というドイツの音楽新聞の記事を紹介してみることにしましょう。 この「音楽総合新聞」は50年間に渡って継続した19世紀前半におけるもっとも有力な音楽新聞で、1000部の発行部数を誇り、ドイツ語圏におけるもっとも充実した音楽情報の提供源でした。この新聞以外にも、さまざまな音楽雑誌や音楽新聞が各地で刊行されており、19世紀にはいると一気に情報化社会に入っていきます。そしてその読者は、音楽の愛好家でした。この1000部という発行部数は、文学新聞などと比較してもまったく遜色ない部数で、これだけの数の定期購読者が確保されていたことだけでも驚くほどです。さらにこの部数は、読者が1000人であることを意味しません。もちろん個人購読者もいますが、楽譜店などの音楽愛好家の多く集まる場所に常置されていて、楽譜を購入する人々がこの新聞を手によって読んで、情報を得ていました。 この新聞の紙面はなかなか多彩でした。有名な音楽家のエピソードや演奏家のプロフィール、各地の音楽情報、そして演奏批評や新譜案内などが事細かに掲載されていました。こうした音楽新聞や雑誌に掲載された新譜案内のリストを見ますと、私たちはその数の多さに圧倒されるでしょう。これほど多彩で多様な楽譜が刊行され、それらが消費されていたということは、それだけ音楽活動が活発であったことを物語っているからです。この活況はドイツやオーストリアだけではなく、ロンドンやパリも同様でした。ロンドンで刊行された「ハルモニコン」という雑誌の新譜案内をみます、ドイツ語圏の音楽雑誌と同様に、新譜案内のラッシュです。それだけ、新作への需要が高かったのです。 音楽雑誌に掲載された新譜案内 「音楽総合新聞」は音楽に関する格好の情報誌という色彩をもっていました。これから楽譜を購入して、自宅のピアノで演奏するに際して、この雑誌の紹介記事が非常に重要になります。次にこの新聞にどのようにピアノの新譜案内が掲載されているのか紹介してみることにしましょう。 まず1806年のこの新聞の記事です。 「ピアノためのアングレーズ、ワルツ、クァドリール、エコセーズ集。H.F.ミュラー作曲。フンメル社刊。ベルリン、アムステルダム。舞曲ということで耳を満足させ、実際に踊れるようなものを望んでいる向きにはこの曲集の32の作品は満足を与えてくれることでしょう。・・・とくにスコットランド舞曲はまさにうってつけです。」 1825年の同じ新聞の記事は、シュポーアのオペラ「イェソンダ」の旋律による編曲作品を紹介しています。 「シュポーア作曲のオペラ「イェソンダ」の主題によるアダージョとポーランド風ロンド。A.フロメルト編曲。芸術・地理・音楽雑誌。ベルリン。イェソンダのアリアの冒頭――「やがて私は精霊となる」―がアダージョの部分です。ナドリのアリア「幸福は私にバラの冠を抱かせる」は、ロンドの部分です。すべて調性を変えて、演奏しやすいようになっています。この曲はオペラでとくに美しいものです。」 この文章記事は音楽の喜びを手に取るように紹介してくれるだけではなく、購買意欲をそそる内容です。しかも、この「音楽総合新聞」だけではなく、主要な音楽雑誌は、雑誌に付録としてしばしばピアノ小品の楽譜を織り込んでいました。多くは2ページ程度の小品ですが、この効果は絶大です。雑誌を通して作品が広範囲に流布し、いわば流行が作り出されたからです。 以前のチェンバロは特定の階級の特権的な楽器でした。しかし、ピアノが登場し、さらに廉価なピアノが製造されるようになると、ピアノ文化が市民階級に浸透するようになります。そうしますと、ピアノの音楽のジャンルにも変化が生じてくるようになります。18世紀では、ピアノ音楽といえばピアノ・ソナタが主流でした。そしてソナタ形式の堅固な形式がとても愛好されていました。このソナタ形式の原理はあらゆる器楽作品の規範となり、交響曲や協奏曲、室内楽作品などにも用いられました。しかし、19世紀に入りますと、ピアノ・ソナタ中心のこれまでの構図が大きく変質していくようになります。 18世紀はあれほどの人気を得ていたピアノ・ソナタが、1830年を過ぎると、劇的に表舞台から去っていきます。もちろんそれ以前からピアノ・ソナタは次第に人々の関心から遠のきつつありましたが、1830年頃に劇的にピアノ音楽の種類が変化していきます。ピアノ・ソナタに代わって多くの人々が熱中したのは、「音楽総合新聞」の新譜案内記事にも示されているように、ワルツやエコセーズ、クァドリールなどの舞曲、そして有名なオペラのアリナなどの旋律の編曲、また、有名なアリアの旋律や親しみやすい旋律を主題とした変奏曲でした。つまり、ピアノ文化の到来は、ポピュラー音楽の到来でもあったのです。 具体的に示しますと、1818年ではウィーンの楽譜出版の約35%はピアノ・ソナタ、約40%は変奏曲で占められていました。しかし、1823年になると、変奏曲は50%を超えたのに対して、ピアノ・ソナタは約15%に落ち込み、1833年には約6%にまで減少してしまうのです。ピアノ・ソナタのこの退潮とは正反対に、市場には軽快な舞曲や標題付きの愛らしい小品があふれるようになるのです。 《その2》へ続く
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山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。