英国王立音楽大学がピアノに熱狂する5日間:ピアノ・フィーバー!
ピアノ・フィーバー!のポスター
イギリスを代表する音楽大学の一つ、ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックを舞台に、鍵盤科をあげてのフェスティバルが開催された。題して「ピアノ・フィーバー!」。5日間に亘って教授陣や学生たちが数々の工夫を凝らしたイベントを企画し、一般に公開した。
タイトル:ピアノ・フィーバー!(Piano Fever!)
主催:ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック(Royal College of Music)
期間:2010年3月5日(金)~3月9日(火)
入場料:無料
ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック
フェラーリ・ピアノとフラッグ
ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック(RCM、英国王立音楽大学)は、高水準な音楽教育、研究を推進することを目的として、1882年にイギリス王室の勅許により創立された。ホルストやブリテンなど一流音楽家を輩出するなど、イギリスを始め世界中から音楽家の卵が集まる音楽大学であり、現在はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの目の前、サウスケンジントンの校舎に約610名、49カ国からの学生が学部、大学院の課程に在籍している。
そのRCMが3月の5日間、ピアノの祭典の場と化した。「ピアノ・フィーバー!」と題した人目を惹くポスターに導かれて大学の構内へ足を踏み入れると、ロビーは黒山の人だかり。その中心には、一際目立つ真っ赤なグランドピアノが!これは「フェラーリ・ピアノ」と名付けられたスタインウェイD型のピアノで、フェラーリの車と同じ赤色で塗られたスペシャルバージョンだと言う。
ヘルメットをかぶって「ポールポジション」のレース
「小犬のワルツ」レースの結果
ヴァネッサ・ラターチェ鍵盤科主任教授
高速のレーシングカーになぞらえて、このピアノで行われたイベントのタイトルは「ポール・ポジション」。期間中毎日、ショパンの「小犬のワルツ」をどれだけ高速で弾けるか?というレースにRCMの学生や教授らが参戦し、最終日に優勝者が発表されるというもの。別名「Minute Waltz(1分間のワルツ)」とも言われる小品は、実際には1分間で弾ききるのは至難の業。「レディ・ゴー!」の合図とともに高速で舞う指や師弟でのデュオ、レースヘルメットをかぶっての挑戦などエンターテイメント性たっぷりの演出に、集まった一般客や学生たちから歓声があがる。ゴールと同時にチェッカーフラッグが振られ、ストップウォッチのタイムが読み上げられる。優勝者は何と53秒という記録をたたき出した。
自らもレースに参戦した鍵盤科の主任ヴァネッサ・ラターチェ教授はこう話す。「こうした学科をあげてのフェスティバルは、それぞれの学科がほぼ毎年1回ずつ企画しています。毎回テーマを決めていて、以前はモーツァルトやサロン音楽をテーマにしたことがありましたが、今年は3月1日のショパンの生誕200年にあわせて、ショパンをテーマに3月に行うことにしました。このように一般の人にも楽しんでもらえるエンターテイメント的なイベントから、前衛的な試みのコンサートまで、企画・運営・演奏・作曲・司会も全て教授、学生、大学スタッフが協力して自分たちでプログラムを作っています。一般にも無料で公開しているので、地域の方々に気軽に音大に足を踏み入れていただく日としても大切な機会だと思っています。」
スタインウェイの歴史
スタインウェイNo.1での演奏
イベントはロビーの華やかな演出だけに留まらない。ロビーの奥に位置するアマリリス・フレミング・コンサートホールには、スタインウェイから特別にレンタルされたもう1つの目玉のピアノ、スタインウェイNo.1のレプリカが置かれていた。スタインウェイNo.1とは、スタインウェイ&サンズの創設者ヘンリー・スタインウェイ(ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク)が1853年ニューヨークにスタインウェイ社を設立する以前の1836年、ドイツの自宅キッチンで初めて製作し、その後のスタインウェイ・ピアノの華々しい歴史の第1歩となった記念すべきピアノである。「キッチン・ピアノ」と呼ばれたその現物はニューヨークの工場に保管されているが、それに魅せられたベルギーのピアノ製作者クリス・マーネにより2年かけて忠実に復元されたレプリカが、このホールへ登場したのである。
No.1ピアノの製作、復元の逸話を含めた、英国スタインウェイ社の代表取締役(MD)グレン・ゴフ氏によるスタインウェイの歴史のお話に続き、その楽器を使ってRCMの学生らによる演奏が披露された。現在とは異なる感触に演奏者も少してこずりながらも、No.1が作られた19世紀前半当時に活躍したショパン、シューマン、シューベルトによる作品を奏で、当時の音の風景を少し垣間見ることができた。会場にはRCMの学生の他にも多くの一般客が訪れ、「No.1のピアノと現在のピアノでは主に何が違うのですか?」「弾き心地はどうでしたか?」などといった質問も会場から挙がった。
ノンストップコンサートのライブストリーミング
ピアノ&プラグコンサート
マスタークラス
フェスティバルの中心は日曜日にまる一日かけて行われたノン・ストップコンサート「ポールズ・アパート」。午前11時から夕方18時半まで、アマリリス・フレミング・コンサートホールに次々にRCMの学生たちが現れ、ショパン・イヤーにちなみ、ショパン(1810-1849)や他のポーランドの作曲家、モシュコフスキ(1854-1925)、シマノフスキ(1882-1937)、ルトスワフスキ(1913-1994)、シュピルマン(1911-2000)、そして現在も活躍中の作曲家の作品などが演奏された。計45曲とほぼ同数のピアニストたちによりつなげられたコンサートは、ふらっと会場を訪れて10分だけ聴いて帰ることもできる上に、RCM初というオンラインでのライブ中継もされ、自宅でも世界中どこからでも聴くことができ、その扉を大きく外へと開いた。
5日間のイベントは下記の通り。ホワイエのフェラーリピアノを使ったリラックスしたジャズや、マスタークラス、RCMの学生により作曲されたピアノ数台と電子楽器とを組み合わせた作品の披露など、様々な試みがなされた。
Pole Position (小犬のワルツレース) | 3月5日(金),6日(土) 7日(日),8日(月) | ホワイエ |
Red Jazz | 3月5日(金)(ジャズ) | ホワイエ |
Pianos and Plugs (ピアノと電子の現代音楽) | 3月5日(金) | アマリリス・フレミング・コンサートホール |
Poles Apart (ノンストップコンサート) | 3月7日(日) | アマリリス・フレミング・コンサートホール |
A history of Steinway (スタインウェイの歴史) | 3月8日(月) | アマリリス・フレミング・コンサートホール |
Steinway No.1 Piano Recital (スタインウェイNo.1の演奏) | 3月8日(月) | アマリリス・フレミング・コンサートホール |
Piano Masterclass with Peter Frankle (マスタークラス) | 3月9日(火) | リサイタルホール |
サウスケンジントンにストリートピアノも登場
RCMではこうしたフェスティバル以外にも普段から一般を対象とした公開のイベントが盛んに行われている。これは地域の人々に音大や音大生に日常的に親しんでもらうとともに、今後の進路を考える子どもたちにも気軽に音大に触れるきかっけともなっている。大学を公開してのイベントとしては、コンサートホール、リサイタルホール、ブリテンシアター、その他の部屋において、無料もしくは廉価でのコンサート、レクチャー、オープンデー、各種コンペティション、子ども向けのワークショップなどが開催されている。またロンドン・ヘンデル・フェスティバルやBBCプロムスなど大規模な音楽フェスティバルの一部会場を担ったり、ジュニア部を設けて若い音楽家の指導とコンサートも行っている。併設されている楽器博物館は15世紀以降の1000以上の貴重な楽器のコレクションを誇り、一般に無料公開されている他、ミュージアムツアーやコレクションを使った演奏とレクチャーなども開催されている。
学外での演奏機会も多い。例を挙げると、St. James's Piccadilly、St. Mary Abbots、St. Martin-in-the-Fields、St. Stephen's churchなどロンドン市内の教会、スタインウェイホールやロイヤル・アルバートホール内の部屋などの会場、ナショナル・ギャラリーやヴィクトリア&アルバート美術館などで絵に囲まれた会場など、数々の場で毎週や毎月などの定期的なランチタイム、モーニング、もしくは夕方のコンサートシリーズを開いている。学外の会場はその場所によって会場の雰囲気や条件も異なり、聴衆もツーリストから子連れ、お年寄りまで様々である。
RCMイベント案内
各タームに学内約60、学外約45の演奏機会が設けられ、これらは学生たちにとって、プロとして巣立つ前に実社会での様々な演奏機会における経験を積み、キャリア形成への自信をつける貴重な場となっている。ソロの他、室内楽シリーズへの出演の機会も多く、演奏の幅を拡げるだけでなく、これを機会にアンサンブルを組んで卒業後も活躍するという例も見られる。これらは学生の育成の一環として大学をあげてのサポート体制が取られ、学業の一部として年に1回もしくは数回の演奏が求められたり、自らさらに希望して申し込んだり、大学を通して有料の演奏会の依頼を受けることもある。外部の会場とのレギュラーの関係を構築し、学生が演奏家として独り立ちするため、在籍中からの経験付与が非常に積極的に展開されていることも、RCMの音大としての強みの一つとして挙げられるだろう。
取材・執筆 二子千草