ショパンコンクールレポート

ショパン国際コンクール・後日編―感性の多様化、演奏の個性化へ

2010/11/20

others_conservatoire.gifショパン国際コンクールが終了してちょうど1ヶ月。大変レベルが高い中、日本人ピアニストも大いに健闘した。結果は伴わなくとも、ショパンの音楽への愛情、演奏にかける情熱と誠実さ、演奏技術などは決して他国のピアニストに見劣りするものではなかった。心から感動した瞬間もある。ではこの結果をどう受けとめ、本来持っている優れた資質をどう生かしていけばよいだろうか。特に過去5年間における社会環境の変化から考えてみたい。

 

5年間で何が変わったか―新しいメディアの台頭と感性の変化

この5年間で、人間の感性はどう変わったのだろうか。
まずグローバル化の進化や新しいメディアの台頭により、我々の生活・社会環境は大きく変容した。2005年に創設されたyoutubeは映像・音源配信には欠かせない一大媒体となり、2006年に一般公開されたSNSのfacebookは今や世界で5億人が利用している。情報の可視化・網羅性が進み、誰もが一度に多くの情報を無料で手にし、自分の好みに応じて取捨選択できるようになった。今月米googleから発表されたファッション専門検索サイト()は、「自分にはどんなスタイルが相応しいのか」を膨大な選択肢の中から絞り込んでいき、消費者の個人化・個性化を後押しする。今や単なる「消費財の増加」ではなく、「消費財の爆発的増加」が進み、それによって選択過多になり、自ら選び取るのが難しいという状況さえ生まれている(『選択の科学』シーナ・アイエンガー著・文藝春秋)。

こうした消費社会の成熟化は、音楽の世界にも影響を及ぼしている。即時性の高いメディアの普及、録音・配信技術の進化により、簡便に視聴できる音源が増えたのは確かだ。国際コンクールのストリーム配信のみならず、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会や著名音楽祭などがライブ中継されたり(Medici TV)、Classic FMRadio Classiqueなどのインターネットラジオでは、古今東西の名演が24時間流れ続ける。当初こういった音源公開には賛否両論あっただろうが、いつしかそれが日常となっていく。

こうして今日は、膨大な選択肢と細分化されたカテゴリの中から、「自分」をどこに位置づけるのかを真剣に考える時代となった。5年という年月は、人間の感性に大きな変化が起きても不思議はない、という時間単位なのである。

 

作曲家と向き合う、唯一無二の自分

では今回のコンクールでは、どんなピアニストが上位進出したのだろうか。
伝統的なショパン演奏を追求するというよりは、唯一無二の存在である自己を信じ、自分の考えるショパンを躊躇なく表現したピアニストが多かった。そんな彼らに対して、必ずしも従来のショパン像に合わない部分があったとしても、説得力ある演奏や、新しい発見をもたらしてくれる解釈には、一定の評価が与えられていた。評価指標も多様化したように見受けられる。

個性的といっても、決して風変わりということではなく、そのほとんどの場合は原理を踏まえていた。すなわち、基本的な技術の上に、作曲者と演奏者の一対一の対話から導き出された音楽観が明示されていた。

ショパンの芸術が時空を超えて普遍性を有するのは、彼個人の思考や感覚から発したものでありながら、そこに人類共通の心情や体験が内在しているからだろう。それが楽譜というメディアを通して全世界に行き渡り、ピアノの前に置かれた瞬間、その演奏者個人の感覚と思考によって捉えられる。そこで、「自分はこう感じる」という気づきと、「では、なぜショパンはこうしたのか?」という問いかけ。その対話こそが、アナリーゼの原点となる。個性的な演奏でありながら、どこか普遍的で共感を呼ぶ演奏には、こうしたアナリーゼの積み重ねがあったのではないだろうか。

正統派に近いインゴルフ・ヴンダーの演奏には、行き届いたアナリーゼと節度ある美意識が組み合わされていた。個性が際立つエフゲニ・ボジャノフも、徹底した楽譜の読み込みに、自らの呼吸を重ね合わせているのが感じられた。惜しくも入賞、あるいはファイナル進出ならなかった参加者の中にも、優れた資質を見せたピアニスト達はいた。アナリーゼは演奏に論理的な裏づけを与えるだけでなく、作曲家・演奏者・聴衆の間に多くの共通言語を見出し、より強く結びつける。

 

全体を見ること

もう一つ、「全体性」の大切さにも改めて気づかされる。
よく芸術作品を鑑賞する時、日本人は近づいて細かく観察するが、西洋人は一歩引いて全体像を見ると言われる。このアプローチの違いは、音楽を作る上でも違いを生み出す。では全体を考えるとはどういうことか。例えば、美しい音は全体の中で何を引き立たせるのか。フレーズとフレーズはどう繋がるのか。楽曲の一部は、全体の中でどんな意味を持つのか。楽曲全体を通したとき、どのような音楽的主張が浮かび上がるのか。楽章間はどのような関係にあるのか。その楽曲を含むプログラム全体には、どんなストーリーがあるのか。この作品は音楽史の中でどのような意味を持つのか。ピアノ曲は、あらゆる音楽の中でどう位置づけられるのか、等など。

優れた構築力と多彩な音でエチュードOp.25全曲を弾いたルーカス・ゲニューシャスは「ショパンはユニークな作曲家」と言うが、それは音楽史の中でショパンの位置づけを捉えた発言である。また深淵な「舟歌」を弾いたフランソワ・デュモンは、「他人が何と言おうと、自分はショパン後期作品に表現主義の兆しを感じる」と主張し、ロマン主義の一歩先を行くショパン像を浮かび上がらせた。優勝したユリアンナ・アヴディエヴァは「私が心から愛する曲を選び、自分のショパンを表現するのにふさわしい楽器を選びました」と言う。その愛情の深さと敬意は、ショパンに関するあらゆる文献を読んだり、何度も博物館に足を運んだりと、演奏以外の行動にも表れていた。

彼らは決して「個性的な演奏」を目指したのではないと思う。自分の視点で楽譜を読み、身体全体で音楽を感じ取り、解釈を掘り下げた結果、演奏が個性化したのだ。それぞれの立場から、ショパンという天才に一歩でも近づくために。
 

考えずに、ただ感じることも

今日本では、「感性」ブームが起きている。人間が持つ根源的な感覚を呼び戻し、自分の身体感覚を再認識しようという呼びかけであるが、その背景には「自分は何を選べばいいのか」「何を信じたらよいのか」といった迷いが増えているという。これは最近の現象のようだ。

日本には昔から、心技一体という概念があった。フランスの哲学者メルロ・ポンティは半世紀ほど前に、「知は身体に宿る」と説いた。しかし、今年出版された『響きあう脳と身体』(茂木健一郎・甲野善紀対談集/新潮文庫)によれば、最近「身体の使い方の部分化」が問題になっているという。特にこの情報社会では知識が一人歩きし、「今ここにある身体」と結びつかない場合があると指摘している。

人は、その身体のすべてが有機的に繋がっている。そして音はそこから出ている。大切なのは、今目の前にあるものを、自分の感覚がどう感じるか。それが、まず第一歩になる。多くの選択肢から最良のものを選び取らなくては・・と焦ることはない。前掲書『選択の科学』は、人間が正常に選択できる数には限界があることを示唆している。
奇しくも今回入賞した方々は、長期間同じ先生について勉強している人が多かったようだ。個人と個人の関わりの中から、じっくり個性が熟成する。

ショパン生誕200周年。あらためて、「作曲者と一対一で向き合う自分」を考える時なのかもしれない。時に、自分が望む方向性が分からなくなったり、自分を見失ってしまうこともあるだろう。そんなとき、鍵盤から手を離し、何も考えずに目を閉じて、ただ音楽に耳をすませてみてはどうだろうか。あるいは鍵盤に手を触れず、楽譜をじっと眺める静寂の時間もいい。

すると、ショパンの一音一音が改めて何かを語りかけてくるかもしれない。その時に感じる「何か」が、自分の原点となる。

 

<お知らせ>

来年1月には全国6都市にて入賞者ガラ・コンサートツアーが開催され、1位から5位までの入賞者が出演する。スケジュールはこちら
なお4位となったエフゲニ・ボジャノフは来日ツアーは不参加となる。が!同時期に来日し、指揮者・佐渡裕氏とベートーヴェン協奏曲第3番を共演する。スケジュールはこちら(兵庫芸術文化センター管弦楽団ホームページ)。

※どちらも売切れ続出ですが、ぜひ彼らの演奏をライブでお聴きください!


ピティナ編集部
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