2010ショパン音楽祭(1)~ショパンが渇望した歌
8月1日より、ワルシャワで行われた「ショパンとヨーロッパ音楽祭」。2005年に始まり、第6回を迎える今年は、ショパン生誕200周年を記念して期間を1ヶ月に拡大して開催された。
音楽祭を貫くテーマは勿論、ショパンである。しかしそれだけでなく、「ヨーロッパという集合体がもつ精神基盤にショパンがどのように根ざしているのか、そして今は?」という壮大なテーマが背景にある。だからこの音楽祭の正式名称は、「International Festival of Chopin and his Europe 2010」なのだ。
アルゲリッチ、フレイレ、ルガンスキー、ヴォロドス、ガブリリュク、ジュジアーノ、フー・ツォン、ダルベルト、ブーニンなどショパンを得意とするピアニストが勢揃いするほか、18世紀オーケストラ(フランス・ブリュッヘン指揮)やイル・ジャルディーノ・アルモニコなど古楽演奏を中心とするオーケストラなども出演し、ショパン作品のみならず、ショパンが影響を受けた作品、影響を与えた作品なども演奏された。
あまりにもプログラムが多彩で全てはカバーしきれないが、今回はショパンと声楽、ショパンとバロック・古典音楽、芸術監督インタビュー、ポーランドにおける「ショパン・イヤー2010」の取り組み、以上4回に分けてお届けします。
ショパンはポロネーズで始まりポロネーズで終わる、そして生涯マズルカを手放さなかったと言われるが、ショパンが心の底で渇望していたのは歌ではないだろうか。
ショパンと歌は切って切れない関係にある。青年期のショパンはよく演奏会に通っていたようだが、18歳の時に作曲されたのは、モーツァルトのオペラを題材にした「ドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』の主題による変奏曲op.2」(1827年)。19歳の時には、歌を勉強中のコンスタンツィア・グワドコフスカに恋をし(1829年頃)、またテノール歌手でロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」初演に出演したアドルフ・ヌーリは友人であり、ソプラノ歌手ポーリーヌ・ヴィアルドとは生涯親しい友人であった。ショパンは歌曲を30曲ほど作曲し、17曲が出版されている。うち9曲は1929年~1931年作、4曲は1936年~1938年作、1947年にも1曲、いずれも恋の破局と前後しているようだ。言葉で表しきれない心情を、歌曲の中に吐露していたのかもしれない。また死の床でもデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に歌を所望し、葬儀には本人の希望によりモーツァルトのレクイエムが奏された(1849年)。その生涯は歌で彩られている。
今回は声楽の演奏会を2つ聴いた。
まず、エヴァ・ポブウォッカ(pf)と)ハンスヨルグ・マメル(テノール)の演奏会は、ショパン、パデレフスキ、シューマンの歌曲。Op.74-1より選ばれた9曲のうち、ステファン・ヴィトフィッキ詩が6曲、アダム・ミキエヴィッチ詩が2曲、ルドヴィク・オシンスキ詩が1曲。このOp.74の17曲中9曲を占めるヴィトフィッキというポーランドの詩人は、ショパンより9年先に生まれ(1801年)、ショパンがパリへ居を定めた翌年パリへ移住し(1832年)、ショパンより2年先に亡くなっている(1847年)。ショパンの心情を代弁した影のような存在にも思える。
マメルの朗々としたテノールに、ポブウォッカのショパンに寄り添うような優しい音色のピアノがしんみりと心にしみ込んでくる。時に優しく時にほの暗い曲は、愛の表現であってもどこか不安で揺れ動くような憂いが見え隠れする。出口の見えない道で、翻弄し錯綜するショパンの魂のようだ。
テノールはもう少し大きなホールの方が良かったか。ピアノはこの歌曲にふさわしい叙情性とホールにふさわしい音質で感情の機微を表現し、歌を支えていた。
休憩後はシューマンの歌曲「詩人の恋」。愛、喜び、悦、そういった感情が直接的に伝わってくる。歌手がドイツ出身ということもあるだろうか、母国語で朗々と歌い上げる彼の良さはこの曲にもっとも発揮されていた。
この日19時からは、ワルシャワ・フィルハーモニーホールに場所を移動し、歌劇「ノルマ」コンサート版を聴いた。ご存知の通り、ショパンとベリーニは厚い友情で結ばれており、ベリーニの生み出す美しい旋律はショパンを大いに魅了した。ショパンは作曲に際してベリーニの進言だけは聞き入れたことがあるそうだ。そのベリーニの代表作「ノルマ」は、巫女の長ノルマ、若い巫女アダルジーザ、ローマ軍司令官ポリオーネの隠された三角関係から、やがて真実が明らかになり、最後ノルマが死に至る悲劇である。
カティア・ペレグリーノ(ソプラノ)のノルマは、巫女らしい繊細で透き通るような声で始まる。「清らかな女神よ(Casta Diva)」は、数あるアリアの中でも最も難しいと言われるが、透明感ある声と存在感が際立つ。対してアダルジーザを演じるルチア・チーリオ(メゾソプラノ)は、情熱的でドスの効いた情念深い声はノルマと対照的。声量もあり、中盤までのデュオはアダルジーザの方がむしろ勝る。一方テノールのグレゴリー・クンデはベルカントのマスターと言われ、特に前半において、やや荒削りな箇所もあるが、その過剰な自信に満ちた性格や男性の色気を艶やかに表現した。
しかし敵方のポリオーネを愛し、隠れて彼の子供を育てているノルマが、アダルジーザの恋人もまた同じ人だと知った時、透明感のあったノルマの声は失望と憤怒に満ちた女の声に変わり、うろたえるアダルジーザやポリオーネを遥かに凌ぐ存在感を見せた。その声質の変化、天に突き抜けるような高音、それはノルマが自ら焼かれていく炎のようであり、フィナーレは劇的な盛り上がりを見せた。1835年、ショパンがパリで聴いて深く感銘を受けたというベリーニの旋律とベルカント唱法は、今日のワルシャワの聴衆も大いに賑わせた。
(ファビオ・ビオンディ指揮、エウローパ・ガランテ(Europa Galante)、ポドラシェ・オペラ&フィルハーモニー合唱団)
ちなみに8月1日のフェスティバル・オープニングコンサートは、ショパンの心臓が眠る聖十字架教会で行われ、ショパンのマズルカop.68-4にに続き、バッハのロ短調ミサBWV 232が演奏されたそうだ(写真)。これには深い意味があるが、後のリポートに譲る。
また3日には声楽コンサートが行われ、カウンターテナーのデヴィッド・ハーレーを始めとする英国出身声楽家5名のグループ、The Kings' Singersが出演した。筆者は残念ながら聴けなかったが、ワルシャワ在住の聴衆の一人カーチャさんによれば、「全員の声が均質で素晴らしかったわ!!」とのこと。
プログラムはブラームス、シューベルト、シューマン、サンサーンスなどの合唱曲に加え、16世紀の作曲家ミコワイ・ツェレンスキ(Mikołaj Zieleński)の宗教曲も。ツェレンスキは16・17世紀の北ヨーロッパにおいて、声楽ポリフォニーの重要な作曲家であった、と評論家パシュコフスキ氏は指摘する。
「(合唱において)ルネッサンス後期のポリフォニックな宗教曲と19世紀のブルジョワ風コラール曲とは異なるが、19世紀のドイツ各都市に存在した声楽学校(Sing Akademie)に集う音楽愛好者が、当世の楽曲とともに、昔の曲も歌っていた事実は指摘してよいだろう。無論ツェレンスキは知られた存在ではなかったし、未だ本来の価値に値する評価を得られていないが、(中略)いずれ古楽アンサンブルのレパートリーに加えられていくことを願う」。
今回のフェスティバルでもツェレンスキは何度か取り上げられ、その労作に敬意が払われた。自国の教会の中から生まれた響きは、今でもポーランドの人々の胸に響くものがあるようだ。
なおワルシャワにはヨーロッパ随一と言われるオペラハウスがある。やはりこの国に生きる人々に、歌は欠かせない。