第07回 低音と高音

第07回 低音と高音

2006/06/27 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 

 ピアノは言うまでも無く打弦楽器である。そして、ピアノのすばらしさと可能性、或いはその問題の全てはここから発する。

 最近、クリストフォリが発明した新型チェンバロ、つまり、「フォルテとピアノの自在なチェンバロ」の研究が進み、そのレプリカに触れる機会も増えている。クリストフォリの偉大な発明については、前にも述べたし、また言及することもあろうかと思うが、ともかくも、その楽器の本体はチェンバロとあまり変わらない。響板と胴体、弦の材質と張力、全体のサイズ、どれをとってもイタリアタイプのチェンバロと同じなのだ。だから、それを叩くか弾くかというところに違いの全てがある と言っていい。

 さて、クリストフォリを実際に弾いてみて、まず感じることは、勿論自在な強弱 が出せることだ。しかし一方、低音がすばらしく鳴るのに高音があまり出ないことにも気づかされる。正にかつてバッハが指摘した通りである。したがって、ピアノ発達の歴史は、まず高音をいかに充実させるか、いかに歌わせるか、という課題を追求する歴史であったと言えるかも知れない。面白いのは、これがチェンバロとは逆転していることだ。つまり、弦を弾くチェンバロでは、豊かな低音を産み出すことが難しいのだ。初期のチェンバロ、1段鍵盤の小型の楽器などでは、中音から高音部にかけては実にすばらしいのに、低音部はちょっと寂しい。爪を強化して無理に 大きな音を出そうとしても、耳障りな倍音だけが強調されてしまう。この問題を解決するため、後期のフレミッシュ、ジャーマン、フレンチのチェンバロでは、楽器の胴体を大きくしたり、高密度の木材を使ったり、響板上のブリッジのレイアウトを工夫するなど、さまざまな努力がなされた。その結果、各音域のバランスの良い名器が産み出されるようになったのだが、一口に良いバランスと言っても、それは一通りではない。演奏者の感性は十人十色、曲の構造も千変万化する。その全てにオールマイティーなチェンバロ、というようなものはあり得ないのである。

 このことはピアノにも言える。弦を叩く方式では高音が弱くなる。そこで、モーツァルトの使ったピアノなどでは一点イ音の辺りから弦を増やして一音につき3本ずつ、それより下は2本ずつとした。この傾向はさらに進み、ショパン時代のピアノでは、大文字のヘ音辺りから上は3本弦、その下の1オクターヴが巻き線2本弦、最低音部が同じく巻き線の一本弦となった。現代ピアノではさらに1オクターヴ下から3本弦となっている。弦の数だけでなく、ブリッジのレイアウトがメーカーによってかなり違う。ということは高音部と低音部の張力バランスが異なるのだ。例えば、スタインウェイの現代ピアノでは、高音部の張力は比較的弱い。しかしセカンド・ブリッジと呼ばれる部分によって、弦の一部が共鳴弦として働くようになっている。これによって高音部が伸び、よく歌うのである。旋律中心のピアノ曲やコンチェルトのソロなどには威力を発揮する。これに対してベーゼンドルファーでは、高音部の張力が強い。したがって、弱く弾いても緊張感のある音が得られ、豊かな低音に 対して程よく溶け合う。その理想はオーケストラや合唱のそれに近づこうとしてい る。楽器にはそれぞれの製作者の思想と音楽観が込められている。それを感じ取り、 弾く曲やシチュエーションに合わせて楽器を適切に選び、生かしてやりたいと思う。

 我々は去る21日、交響曲の連弾版を中心とするコンサートを行ったが、その際新 しいベーゼンドルファーを用いた。これを弾きこなすにはなかなか骨の折れる面もあったのだが、オーケストラを思わせる立体的な響きを得るには、やはりベーゼンドルファーはすばらしい、という感慨を新たにさせられた。


武久 源造

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