第05回 装飾音について

第05回 装飾音について

2006/05/26 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 

 今日は、前回までの話題と関連させながら、少し角度を変えて、「表情として の装飾音」という話をしましょう。

 装飾音の起源は大変古く、そもそも人間が音楽を始めたとき、もう既に、豊か な装飾音が存在していたことは間違いのないところでしょう。それは、アフリカの諸部族、或いはカナダのイヌイット(エスキモー)などの音楽を聴いてみれば直ぐに合点がいきます。彼らの音楽の中には、何万年も前から変わっていないと思われるようなものもありますが、それらの中にバロック音楽と全く同じ装飾音を見つけることは簡単です。インドやペルシャの古典音楽でも、装飾音は音楽の本質の一つと見なされてきました。この考え方は、ルネッサンスやバロックのヨーロッパ音楽にも通じていて、例えば、有名なエマーヌエル・バッハの『正しいクラヴィア奏法』でも、「鍵盤演奏に大事なことは、適切な運指、巧みな装飾法、豊かな演奏感性だ」という意味のことが述べられています。

 さて、装飾音には大きく三つの機能があると考えられます。それは、リズム的装飾、旋律的装飾、和声的装飾です。鍵盤音楽を中心に、その三つの機能を簡単にご紹介しましょう。私の最初の連載の時にご紹介したジョン・ブル作曲の『王の狩』という曲を思い出してください。鋭いトリルやモルデントが散りばめられていましたね。ここではそれが、馬が駆けたり、鉄砲を撃ったり、という狩の場面を描写するために、効果的に用いられています。装飾音がリズムを際立たせているのです。まるで、トリルやモルデントが、鈴やシンバル、小太鼓の連打のように聴こえます。

  モルデントという言葉には「酸っぱい」という意味があり、あえて訳すならば「ぴりっと」という感じでしょうか。モルデントが過度に穏やかに、或いは少々間延びして弾かれるのをよく耳にします。確かに緩やかな音楽の中では、それなりにマイルドに弾くべきモルデントもあります。しかし、「ピリッと」という特色を失 っ てしまったら、それは古くなった蜜柑の味と同じ、と言わなければなりません。

  バッハの例を出しましょう。『ゴールトベルク変奏曲』の第23変奏には、リズム的装飾音が横溢しています。バッハはここで、モルデントを記号でなく音符で書き 表しています。バッハの頃には、イタリア風の装飾法と、フランス風のそれとがヨーロッパ中に流行し、特にドイツでは、その二つの違いを弁えつつ両方に精通することが、音楽家に求められた良識だったのです。しかしこれはなかなか至難なことでした。バッハは長年の経験から、自分の得た知識を誤解なしに人々に伝えようとしました。この頃フランスで活躍していたリュリの弟子達、例えばモンテクレールの『音楽の原理』では、10数種類のトリルが列挙されており、そのそれぞれに記号が付けられています。バッハは彼らフランス人の音楽を丹念に勉強したのですが、装 飾に関してはフランスの記号をそのまま輸入するのでなく、細かい音符を使ってできるだけ丁寧に書き下そうとしたのでした。その結果、バッハの譜面は、時に大変 複雑な概観を呈することになりました。この第23変奏などもその例です。

  しかし装飾音の元々意味するところに戻って考えれば、バッハの意図は明快です。 この曲では、左手と右手が戯れるように追いかけあっていますが、その中で、やはり鈴や様様な種類の太鼓が打ち鳴らされ、信じられないほど、巧緻で立体的なリズ ムの対位法が繰り広げられています。


武久 源造

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.piano.or.jp/mt/mt-tb.cgi/3266

コメントする