第01回 初めの一歩
【演奏】
♪ ジョン・ブル (Bull,John 1562~1628) 「王の狩」 (MP3) 演奏:武久 源造(チェンバロ)
※CD:鍵盤音楽の領域vol.1(ALCD-1001 :ALMレコード)より/音盤情報はこちら
私達は生活の中で様々な道具を使う。それぞれの道具に各々の歴史がある。例えば、今私の目の前には机があって、その上にコンピュータが乗っている。コンピュータというものが今のこの形になったのは、せいぜい近々30年間のことだろう。それに比べて、机の歴史は古い。おそらく何千年、或いは何万年の歴史があるだろう。人間は机の上であらゆることを行ってきた。食事をし、絵を描き、本を読み、文章を物し、計算をし......。
机にはいろいろ在る。これまでに無数の改良型が考案されてきたのだろうが、結局今私の前にあるようなシンプルな形、四足の上に天板というこの形が未だに最もポピュラーなのではなかろうか。我々は机がいつも身の回りにあって、余りにも当たり前のものなので、これがいつ発明され、いつ人間の歴史に登場したか、などという疑問は普通持たない。しかし確かに、机にも最初の瞬間というものがあったはずだ。
それまで人間は机という物を知らなかった。それがあるとき、どこかの天才が「ちょっと閃いてね」などと言って、この形の物をこしらえたのに違いない。それが、当時の人々の生活をどれほど大きく変えたことか。たぶん、その衝撃は、今日の私達にとってのコンピュータに優るとも劣らぬものがあったろう。
どんな物にも初めがあり、大半の物には終わりがある。机もコンピュータも、それ自体としては一見何も語らない「物体」である。しかし、注意深く観察してやれば、それらは雄弁に語り始める。我々の周りのあらゆる物にはそういう意味での情報が詰まっているのだ。
ある物がこの世に生み出された時、人間がそれを認識した最初の瞬間、例えば平らな自然石を見て「これは机になるぞ」と誰かが思いついた瞬間、その時の驚き、霊感のエネルギー、或いはただわくわくするような感じ、それを私は「親状態 (おやじょうたい)」と呼んでいる。原初の輝き、天地創造の最初に光が現れたときのあのエネルギーの状態だ。
机の親の親、原初の第1世代が持っていた感動のエネルギーは、それの遠い子孫である私の机にも僅かながらでも流れているはずだ。そう思って、静かに触れ、耳を澄ましていると、その躍動が、私の手や耳を通して徐々に蘇ってくるのが分かる。
これは、時を越えた命との出会いであるが、そのチャンスは思わぬ所で私達を待っている。
| バッハのチェンバロ | ドビュッシーとプレイエル | ショパンのピアノ |
バッハのチェンバロ
前置きが大変長くなってしまったが、私がチェンバロやフォルテピアノ、クラヴィコードなどの、いわゆる古楽器を弾いているのは、上に述べた「親状態」を体験したいからに他ならない。
平均律第1巻第1番のプレリュードがバッハの頭の中で生まれた時、バッハは何をしていただろうか。1人沈思黙考していただろうか、それとも、子供達の相手をしながら、楽器を爪弾いていただろうか。それはバッハのプライベートな生活であって、彼が既に故人となった以上、もう永遠に分からないことかも知れない。しかしともかくも確かにその瞬間はあった。そのとき、バッハはどんな音をイメージしたのだろうか。或いは、どんな音の素材の中から、あの曲は浮かび上がってきたのだろうか。間違いなくそれは、あの名曲の母体に相応しいすばらしい音であったはずだ。
バッハはその生涯に何十台ものチェンバロを使ったと思われるが、それらの大半は現在ジャーマン・チェンバロと総称されるドイツ系の楽器だった。私がバッハ演奏に好んで用いるのは、その頃のドイツを代表する名工クリスティアン・ツェルの楽器(現在ハンブルクの楽器博物館所蔵)のレプリカである。ジャーマン・チェンバロは一般に音が比較的硬質、重厚でアタックは明瞭だ。特に中音域がよく鳴る。
これはフーガを弾く際、内声部を雄弁に語らせるのに有効だ。意図的な努力をしなくても、対位法を立体的に表現することが、このチェンバロでは自然にできるのだ。
これに対して、同じ時代のフランスのチェンバロの音は、全体にまろやかで暖かく、音域による音色の差が激しい。特に低音部と高音部が目立つ。クープラン、ラモーに代表されるフランスのチェンバロ音楽は、多くの場合旋律と伴奏と言う形を取り、しばしば具体的な描写を含む。抽象的な表現はあまり見られず、フーガのような対位法的な処方は殆どの場合意図的に避けられている。こういう音楽にフランスのチェンバロ(クラヴサンと呼ばれる)は実に適しているのだ。
ドビュッシーとプレイエル
私はこれまでに多くの古い鍵盤楽器のオリジナルに直に触れてきた。盲人である私は直接触る以外に楽器を検証する手段が無い。ヴァイオリンなどと違って、鍵盤楽器のオリジナルは大半は博物館にある。博物館では、オリジナルをできるだけ忠実に保存するために、例え演奏不可能なまでに損傷していても、それを今の素材で置き換えて修復する、ということは原則として行わない。だから、そういう古い楽器を触っても、それがすばらしい楽器だとはとうてい感じられない場合が多い。かたかたと雑音がしたり、かそけき音しか出なかったりする。今日のピッチまで上げると、その張力を楽器が支えきれないので、しばしば敢えて調律をしないままにされている。しかしそれでも、静かに楽器に触れていると、その「親状態」が蘇ってくることがある。本来その楽器が持っていたすばらしい音が聴こえてくるのだ。
武蔵野音楽大学の楽器博物館には多くのアンティーク・ピアノが蔵されているが、その中に、ドビュッシー時代のプレイエル・ピアノがある。これを私が最初に見たのは今から25年も前のことだが、その時の鮮烈な印象は忘れられない。何気なくハ長調の音階を弾いてみたのだったが、それだけで納得した。一つ一つの音に個性的な音色があって、それが自然に移り変わる。これならドビュッシーのような天才でなくても、印象派風の音楽が自然に浮かんでくるような気がする。いや、もうそのハ長調の音階だけで、既に私には揺れ動く光の戯れのごとくに聴こえたものだ。(その後私は、ドビュッシーが好んだピアノは、プレイエルではなかったことを知るのだが、それはここではとりあえず問題ではない。プレイエルはやはり、ドビュッシーが育ったフランス・ピアノ界を代表する楽器には違いなかったのだから。)
ショパンのピアノ
では、プレイエル・ピアノを真に好んだ巨匠は、といえば、それはショパンである。ショパンは生涯に5台のピアノを持った、と言われているが、晩年の彼は3台のピアノを手元に置いていた。プレイエル、ブロードウッド、そしてエラールである。ショパンの日記などを読むと、彼がこの中でいちばん気に入っていたのはプレイエルであったことがうかがわれる。これらのピアノは、今や日本でもあちこちで見ることができる。しかもすばらしい状態で。(日本の修復家の技術水準は世界に抜きん出ており、ヨーロッパの有数の博物館から依頼されて仕事をしている人も少なくない。)
さて、ショパンの愛した3台のピアノであるが、それらはいずれも高音部が宝石のように美しい。プレイエルは、あたかも空中を漂う水滴のように湿った輝きを持ち、エラールは小さな鐘を叩くような、あたかも鉱物の結晶のような硬質の響きを持つ。
そして、ブロードウッドはそれらの中間で、比較的落ち着いた、修道院の合唱のような謙虚さと透明感を湛えている。これに対してそれらのピアノの低音部は、当時のドイツのピアノと比べてかなり弱い。モダン・ピアノに慣れた私達の耳には時に心もとなく聴こえる。しかしこの特徴はショパンの音楽には大変好都合なのだ。左手の伴奏は、特に努力せずとも自然に穏やかに、軽やかに弾ける。そして、右手の旋律はこれまた自然に、きらきらとしっとりと、また透明に奏でることができるのだ。
この体験は私達の創造力をかきたてずにはおかない。「なるほど、だからショパンはこのような音楽を作ったのか!」と、合点が行くのだ。確かにそれは、我々の勝手な思い込み、または偏見である場合もあるだろう。だが、演奏家にとって、このように心の深いところで納得することがどれだけ大きなエネルギー源となりうるか、そのありがたさはとうてい言葉では言い尽くせない。
次回は、チェンバロという楽器について、できれば写真や音源も含めたいろいろなデータを交えて、具体的に掘り下げてお話したい。
武久 源造
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