第21回 19世紀前半のパリ音楽院ピアノ教授、ピエール・ジョゼフ・ギョーム・ヅィメルマン ―その教育の成果は・・・?
今回は、前回に引き続きヅィメルマンの経歴とその業績を紹介していこう。第21回の話題は、彼のあげた教育の成果についてである。
1821年、作曲の教授資格を断念してピアノ教育に終生を捧げる決心をしたヅィメルマンは、際立った教育的成果をあげ始める。今日、ピアノ教師の名誉は、良かれ悪しかれ生徒がいかにコンクールで優れた成績を収めるかにかかっていたが、ヅィメルマンの頃もそうだった。パリ音楽院でコンクールといえば、音楽大学でいうところの修了演奏であり、演奏の良し悪しによって一等賞や二等賞、次席などの賞が割りふられ、音楽院の財政状況によって楽譜や楽器などの賞品が生徒に与えられることもあった。
ヅィメルマンの門下生たちは、その熱心な教育によって、1822年頃から、このコンクールで次々に一等賞や二等賞を獲得するようになった。実際、彼の門下からでた受賞者数は、他の教授の受賞者数と比較して、どの程度、差があったのだろうか?ヅィメルマンが音楽院でピアノを教え始めた1811年から退職する48年までの音楽院の受賞者名簿を調べると、この期間に彼のクラスから出た受賞者数は一等53名、二等は48名、計101名であることが分かる。この数を、20年代から40年代の間に教職にあった他の教授のクラスの受賞者数と比較すると、いかにその数が多かったかが分かる。次に示す表は、彼らの在職期間と、その生徒の受賞者数である(1)。
クラス | Zimmerman* | Adam | Pradher | Letourneur | Michu |
一等賞の人数 | 53 | 59 | 9 | 1 | 3 |
二等賞の人数 | 48 | 44 | 15 | 2 | 1 |
受賞者数合計 | 101 | 103 | 24 | 3 | 4 |
在職年数 | 37 | 45 | 27 | 8 | 20 |
在職期間 | 1811-48 | 1797-1843 | 1800-02 1803-28 |
1822-30 | 1808-28 |
年平均受賞者数 | 2.7 | 2.3 | 0.9 | 0.6 | 0.2 |
最も多くの受賞者を出したのは、最も長く教職にあったルイ・アダンのクラスであるが、年平均受賞者数を比較すると、アダンよりも8年短く教職にあったヅィメルマン・クラスのほうが、受賞者数が多いことが分かる。
ケルビーニの院長時代(1822~1842)、コンクールの審査基準が幾分緩く、この時期とヅィメルマンの教授時代の大部分が重なったために、彼のクラスから多くの受賞者が出たという側面もあるが、それでも19世紀前半から中葉にかけてフランスの卓越したヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして活躍したアルカン、プリュダン、ラコンブ、ラヴィーナ、ゴリアが学んだのは、ヅィメルマンのクラスにおいてであった。
(1) ヅィメルマン・クラスの受賞者数に限っては、筆者の調査によって明らかになった数値を採用した。その他のクラスの受賞者数は、フランスの研究者、フレデリック・ド・ラ・グランヴィルFrédéric de La Grandvilleの研究 (1979) に負っている。
2.ヅィメルマン・クラスの受賞者数の評価
このように、確かにヅィメルマンにおいては、他の教授のクラスよりも、年平均受賞者数が多かったわけだが、この数字は実際にヅィメルマンとその生徒たちの卓越性を示しているといえるのだろうか?というのも、音楽院の規則が定めた毎年の受賞者数の上限は変更されることがあり、特に1820年代から40年代に教授を務めたヅィメルマンやアダンのクラスからは、受賞者が出易い状況にあったので、他の教授の業績と単純比較することはあまり公平とはいえない。そこで、この点を明確にするべく、この音楽院の規定が受賞者の数にどのような影響を与えているかを見ることにしよう。
音楽院の総則(校則)は、フランスの政治体制の変化や院長の交代に際して19世紀の間に何度も更新されている。ここでは、ヅィメルマンの在任期間に対応する3つの総則、即ち1808年?1822年、1822年?1841年 (ケルビーニLuigi Cherubini [1760?1842]院長時代)、1841年?1850年(初期オベールDaniel-François-Esprit Auber [1782-1871]院長時代)における受賞者数の規定をみることにしよう。これを整理すると各期間の年間受賞者数は、以下のように規定されている。
・ 1808年?1822年・・・各科にそれぞれ一等賞、二等賞、次席を一つずつ(第4節、第114項)
・ 1822年?1841年・・・記載なし。
・ 1841年?1850年・・・各科にそれぞれ一等賞、二等賞を一つずつ。この人数は増やすことができない。いかなる賞も、共有されることはありえない。(第7節、第48項)
この基準を、各年度の受賞者数と比較することによって、ヅィメルマンのクラスの受賞者数を客観的に評価することができる。以下に示すグラフ(図1)は、彼の在職期間に受賞した彼の生徒数の推移を示している。
図1 ヅィメルマン・クラスの受賞者の推移 このグラフには、3度に亘る規定の変化が如実に反映されている。すなわち、1811年から1820年までは規則どおり、一等賞、二等賞の人数基準が守られているが、21年には3名が受賞し、1822年?1841年にかけては、総則に基準が明示されなかったことにより、恒常的に受賞者数が2名以上となっている。一等賞と二等賞の合計人数は、この期間、1827年、34年、39年に3回のピークを迎え、6名にまで達した。その後、41年になると、47年までは新たに定められた基準に従って賞が生徒に割り振られた(47年は規定に反して受賞者は基準の二倍になっている)。こうしてみると、ヅィメルマンのクラスから受賞者が多く出たのは、1822年から40年頃にかけて、すなわち、ケルビーニの在職期間中であったことが分かる。つまり、制限が設けられなかったことは、それなりに受賞者を出しやすい状況を作っていたのだ。
しかし、受賞者数がこの期間に急増したのは、優れた生徒が単に増えたとも見ることができる。この点をいっそう明確にするために、次回、音楽院のコンクールの審査基準を客観的に検討してみよう。音楽院の公開コンクールが、部外者の目にどう映ったのか。ある批評家の目から、今日とは一寸違うコンクールの風景が見えてくる。
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
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