第20回 フランス・ピアニズムの未来を切り拓いたピアノ教授 ―ピエール・ジョゼフ・ギョーム・ヅィメルマン
19世紀前半のフランスのピアニスト・作曲家・教師の中で、ヅィメルマン以上にパリ中の芸術家の尊敬を集めた人物はおそらく存在しない。彼の存在は、この時代のパリ音楽界における強力な磁場を形成し、パリを訪れるヴィルトゥオーゾたちを引き寄せた。ショパンやアルカン、カルクブレンナーも居住したことのある、オルレアン広場の彼のサロンには、クラーマー、ショパン、リスト、タールベルク、コンツキ、デーラー、ローゼンハインなど、パリを訪れた著名なヴィルトゥオーゾたちが吸い寄せられ、アルカン、プリュダン、ラコンブ、ラヴィーナ、マルモンテル、フランク、ゴリアといったパリ音楽院のヅィメルマンの門下の精鋭たちがここで外国のヴィルトゥオーゾたちと音楽のセンスと技術を競った。
一体、これほどの求心力を発生させたこのヅィメルマンとは、いかなる人物だったのだろうか。実のところ、ヅィメルマンに関するまとまった学術的研究は未だに存在せず、彼がピアノ音楽の発展に対してなした貢献は、まだ歴史の暗がりに葬り去られたままとなっている。したがって、彼の作品や著作などに目を通した者は、少なくともこの一世紀の間は、殆ど存在しなかったのではないだろうか。今回から、カルクブレンナーに引き続き、パリの最重要ピアノ教師としてのヅィメルマンの経歴、メソッド、作品を紹介していくことにしよう。連載の筋は、第6回「アダン後の2人の名ピアノ教師―ヅィメルマンとカルクブレンナー」と連絡しているので、適宜参照されたい。
1. ヅィメルマンの幼年時代から学生時代
ヅィメルマンは1785年3月、カルクブレンナーよりも半年ばかり早くパリで誕生した。彼の父はドイツ系の楽器製造者、ピエール=ジョゼフ・ヅィメルマンPierre-Josef Zimmerman、母はロザリー=エリザベート・フェッサールRosalie-Élisabehe Fessardである。ピアノを製造していた父は、息子に最初のピアノのレッスンを施し、その後、パリのあるピアノ教師の手に委ねた。1798年、彼は95年に創設されたばかりのパリ音楽院に入学し、ボイエルデューについてピアノの腕に磨きをかけた。彼の進歩は目覚しく、翌1799年(革命暦第8年)には音楽院のコンクールでピアノの一等賞を獲得した。この年のコンクールには、前年2等賞を獲得していたルイ・アダン門下の名手、カルクブレンナーが参加していが、しかし、ヅィメルマンは彼を見事にかわして一等賞に輝いたのである。翌1800年12月8日、音楽院の小ホールでお披露目演奏会と授賞式が行われ、14歳のヅィメルマンはクレメンティのピアノ協奏曲を演奏した。この授賞式には当時の第一執政官、ナポレオン・ボナパルトが招かれていた。ヅィメルマンの演奏に満足したナポレオンは、奨励金として300フランを授与することを認めたという。新進気鋭のピアニストとしてスタートを切ったヅィメルマンであったが、彼は自身のピアノの技術を向上させるだけでは満足せず、エクリチュールの勉強に情熱を傾けた。パリ音楽院でレReyとカテルCharles-Simon Catel(1773-1830)に和声を学んだ彼は、1802年に輝かしいピアノの一等賞に引き続いて和声の一等賞を獲得し、その上、ケルビーニに長く師事して対位法とフーガの技法に習熟した。
それでも、彼は第一にピアノ奏者として歩み始めた。彼はまず、当時著名な歌手たちの伴奏者に起用された。1799年にパリ音楽院の声楽・オペラ朗唱クラスclasse de chant et de déclamation lyriqueの教授に就任していたフランスの著名なテノール/バリトン歌手、ガラPierre Garat (1762-1823)は、1803年から1805年にかけて自身の専属伴奏者ならびに復習教員としてヅィメルマンを用い、たびたびこのフランスのヴィルトゥオーゾ歌手と共にステージに立った。ガラのほかにも、ヅィメルマンはイタリアのスター・ソプラノ歌手、カタラーニAngelica Catalani(1780-1849)の伴奏を務め、華々しい舞台を経験した。後年ヅィメルマンが生徒のマルモンテルに語ったように、彼は、こうした著名な歌手たちの演奏会に、流行のヴィルトゥオーゾとして参加したいと思っていたが、次第に彼の活動においては教育がウェイトを占めるようになっていった。彼は順調にパリ音楽院で経歴を重ね、給与なしではあったが、1811年1月5日にピアノ科の助教授という肩書きを得た。
2 音楽院における教職?ピアノ科と作曲科の選択
革命と第一共和制の下に発展した彼の音楽院は、1814年にルイ18世が即位し、ブルボン王朝が復活すると、1816年まで閉鎖の危機に陥った。1815年に創設当初から院長を務めてきたサレットBernard Sarrette(1765-1858)は辞任のやむなきに至り、続く17年までの3年間、コンクールは中止され、オーケストラの公開演奏会も1823年まで中断された。
翌1816年に音楽院は、ペルヌFrançois-Louis Perne (1772-1832)の運営の下、音楽および朗唱王立音楽学校École royale de musique et de déclamation ―この名称は音楽院の母体となったアンシャン・レジーム時代の王立歌唱学校École royale de chantを意識している―として再編され、4月1日に新たなスタートを切る。この際にヅィメルマンはピアノ科助教授に任命された。彼の年給は、ルイ・アダンやプラデールといった当時のピアノ科教授のわずか3分の1にあたる500フランであったが、翌1817年には800フランに昇給し、格上の助教授となった。そしてついに1820年の同日、再び教授の地位に付くことになった。このとき、彼の給与は1200フランに達し、名実共にパリ音楽院のピアノ科教授となったのである。
公的なピアノ教育に携わりながらも、彼の作曲への情熱が冷めることはなかった。1821年、5年間に亘りパリ音楽院で対位法とフーガの教授を務めてきたエレルAndré-Frédéric Éler(1785-1821)が亡くなると、彼の後任をめぐる選抜試験が行われた。彼はこのとき既に、ピアノ科の教授職にあったが、二つのポストが兼任可能かどうか確認もせずにこのコンクールに臨んだ。彼はケルビーニの元で培った厳格対位法の技量をこのコンクールで遺憾なく発揮し、危なげなく一等賞を手にした。ケルビーニの愛弟子として面目躍如たる成果を挙げたヅィメルマンであったが、試験後にある問題が生じた。彼は20年以来ピアノ科専任教授であったために、対位法・フーガのクラスを兼任することを大臣が許可しなかったのである。そこで、彼はピアノの教授を継続するか、作曲科に新たに就職するか、選択を迫られた。彼が選択したのはピアノ科の教授職を存続することだった。
この決断は、ヅィメルマンのピアノ教育に対する熱意と先見の明を表していると言える。王政復古期の音楽院において、作曲科はピアノ科より教授の給料が良く、教育のヒエラルキーの上位にあった。一方、ピアノ科を含む器楽諸科がこの学校において占めていた地位は、作曲、声楽に継いで最も低かった。というのも、この学校の機能は、王政復古によって音楽院の母体となった王立歌唱学校(1784年創設)の機能に逆戻りしたからである。つまり、学校の当座の役割は、必要な音楽人員をオペラ座に供給することになったのである。この結果、器楽奏者を多く養成する必要はなくなったのである。
この変化は、ピアノの位置づけにも重大な影響を与えた。王政復古以前の音楽院では、声楽と器楽の教育の均衡は比較的保たれていた。この時期にはピアノも、単に伴奏楽器ではなく、独立した楽器として扱われていたが、しかし、音楽院が音楽及び王立学校と名称を変えてから、ピアノは声楽の伴奏楽器という性格を強めていったのである。
一見、このような状況下では、作曲科の教授に就任した方がヅィメルマンにとっては将来性があり、生活もいくらか楽になっていたであろうと思われる。しかし、彼の視線は当座の利益や名声よりも、ピアノ教育の将来に注がれていた。ヅィメルマンの手放した対位法・フーガの教授職は、一歳年上のフェティスFrançois-Josef Fétis (1784-1871)が引き受けることとなった。
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
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