第15回 カルクブレンナーのピアノ・メソッド 7―生徒に勧めた作曲家と作品の分類 (2)
前回に引き続き、今回はカルクブレンナーが提示したピアノ練習の7つのカテゴリーを紹介する。一応、前回も提示したその7つを再度ここに掲げる。
1.手動器 [連載第10回参照] を用いる当メソッド2. クレメンティ、クラーマー、ドゥセクの作品
3. クラーマーの練習作品exercices、クレメンティの《グラドゥス・アド・パルナッスム》に含まれる
練習作品、カルクブレンナー、モシェレス、ベルティーニ、シュミット、ケスラー、モンジェルー等々の練習作品
4. J.S. バッハ、ヘンデル、C. P. E. バッハ、アルブレヒツベルガーのフーガ
5. フンメル、モシェレス、フィールド、アダン、カルクブレンナー、チェルニー、ピクシス、
ベルティーニ、ヴェーバー、H.エルツ、リースの作品、それからピアノのために書かれたすべての古典的な作品
6. ベートーヴェン
5つめまでは第14回で解説したので、そちらを参照していただきたい。
カルクブレンナーは、6つ目のカテゴリーとして、ベートーヴェンただ一人の名前を挙げて、自ら数行のコメントを書いている。
私は、生徒のメカニスムが形成されるまでは、彼らにベートーヴェンのピアノ作品を演奏させない。この崇高な天才は、指使いについて、努めて考えるということはありえなかった。彼の音楽をあまりに早くに演奏する生徒は、悪い癖と悪い指使いが身についてしまうだろう。
ベートーヴェンのピアノ作品、とりわけ中期以降のピアノ・ソナタは、演奏上の機能性ばかりでなく、音楽の書法自体にかなりの重点が置かれている。とりわけ彼の後期ソナタには、2つめや4つ目の分類に見たように(第13回参照)、ドゥセクやクラーマーが探求した華麗で優美な即興的装飾句が含まれると同時に、分類の4で見たような(第14回参照)フーガ書法がかなりの規模で用いられている(作品101の第3楽章、作品106《ハンマークラヴィーア》の第4楽章、作品110の第3楽章)。つまり、カルクブレンナーの考えでは、ベートーヴェン作品は1?5番までの演奏技法がすべて必要とされるから、それらを習得したうえでなければ演奏すべきではない、としたのである。そして、1831年の時点で、彼が目指す演奏のピアノ極みは、ベートーヴェンのピアノ作品、とりわけ後期のピアノ・ソナタであったのではないか、と想像されるのである。
カルクブレンナーはしかし、最終段階として第7のカテゴリーを設けている。それは、ピアノ以外の楽器のために書かれた作品をピアノで演奏する段階である。彼はこれについて、次のように述べている。
自身の勉強を修了するためには、ヴァイオリンやフルート、チェロといった、他の楽器のために書かれた音楽もたくさん演奏しなければならないが、これはよいアクセント付けをし、指使いが悪くて、ほとんど演奏できないような走句の演奏を学ぶためである。たとえば、パガニーニのヴァイオリン用の練習曲は、確かな指使いが可能な手のポジションが失われることを恐れなければ、練習するには非常によい作品である。
彼が挙げているパガニーニの「練習曲」(《24のカプリス》のことであろう)は、リストやシューマン、のちにはブラームスが、実際に旋律素材を用いて自由なトランスクリプションを仕上げた。ピアノの演奏技法が、ピアノ以外の楽器の作品を演奏することによって発達したという側面はあまり認識されていないが、実際、この実践によってもたらされた恩恵は非常に大きいものだった。
この引用の直前で、彼はオーケストラ・スコアをピアノで弾くことについて述べているが、彼にとってこれもまた、一通りの課程を修了してから取り組むべきものであった。当時、ピアニストのこうした能力は非常に重要視されており、パリ音楽院では、オーケストラ・スコアを読みながら声楽の伴奏をするための特別なクラスが存在していた。本来はオペラの伴奏ピアニストの素養を養うためのクラスであったが、この教育のおかげで、世紀中庸以降、ピアノ・トランスクリプションや交響的なピアノ作品において、ピアノの演奏技法がマニアックに探求されることとなった。アルカンのトランスクリプション集《音楽院の思い出》、《室内楽の思い出》、ベートーヴェン、モーツァルトのピアノ協奏曲(ピアノ曲事典の音源と解説参照)の独奏用トランスクリプション、パリ音楽院出身者ではないが、フランツ・リストの一連のベートーヴェン交響曲などのトランスクリプションなどは、その白眉といえるだろう。
昨今では、オーケストラ曲や室内楽曲のスコア・リーディングはピアノの教育課程ではそれほど重きが置かれておらず、そのような能力を体得したピアノ学習者はそれほど多くない。時にはピアニストとしての活動上、そのような能力は必要ないと考えられることさえあるが、当時は今日のようにオーケストラのスコアは普及していない上に、録音などは当然なかったので、オーケストラ作品の勉強をするには、直接スコアから音を出すか、ピアノ用編曲でアウトラインを確認する他になかったのである。そして、どうすればピアノでオーケストラの幾つものパートを演奏し、シンフォニックな響きを実現できるか、という好奇心が、彼らの心を捉えて止まなかったのである。 つぎに、彼は演奏を完成させるためには暗譜による演奏が不可欠であると述べている。初見で演奏するばかりでなく、曲を十分にさらいこみ、仕上げることを彼は生徒に勧めていたのである。1830年当時は人前で、暗譜で演奏することは少なく、演奏会では複数の演奏家が新作や即興を披露することの方が多かったので、何ヶ月も自分のリサイタルむけて弾きこむということはなかった。カルクブレンナーは、演奏会でも暗譜すべきであると述べているわけではないが、暗譜で演奏する今日の一般的な習慣はすでにこの時点で生まれつつあった。この習慣の普及に貢献したのは次世代のフランツ・リストであった。
さて、ここまで、カルクブレンナーの《メソッド》第1部から、いくつかの話題をピックアップして、それぞれに考察を加えてきた。具体的な練習課題の例はあまり挙げてこなかったが、その代わりに、次回からは《メソッド》の第2部をなす12の練習曲を音源とともに紹介しながら、それぞれの練習曲で彼が設定した演奏技法をみていこう。
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
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