第11回 カルクブレンナーのピアノ・メソッド 3―メソッドの概要 第1部
カルクブレンナーのメソッド(1831)は、2部から成る。第1部には音楽とピアノに関する一般則と、練習課題が、そして第2部には、第1部で学んだ内容を生かした練習曲が12曲収められている。このうち、第1部は音楽の一般原則を述べた部分と、練習課題の2部分に分けられる。第1部の目次は以下のとおりである。(*は筆者がつけた見出し。見出し番号も筆者が分類の都合上、独自に付したものである)
序
1.音楽の一般則
5線、記号、音部記号について/音階について/シャープ、フラット、ナチュラルについて/調について/短調と長調について/音程について/音階の属(長、短、半音階)について/音価、全休符類、四分休符類について/省略について/付点について/拍子について/速度について/繰り返し、その他の記号について/休止とフェルマータについて/その他の記号について/シンコペーションについて/トリル、ターン、その他の装飾音について/短音階について/調判定法について/ペダルの用法について/楽器の選択について/表現とニュアンスについて/リズムとフレージングの方法/音楽の句読法/音符の弾き方とピアノの音の変化について
2.指使いの規則について
反復音/指間を広げる/狭める運指/三度の運指、同鍵を同指で弾く運指/オクターヴと六度の運指/和音の運指/同鍵上で異指に置き換える運指/付点音符の運指/フーガと多声の運指
3.理想のピアニスト、取り組むべき作曲家、練習法について*
ピアニストに求められる質について/座り方について/学ぶべき作曲家とその分類について/練習法/結論
4.練習課題*
第1段階の練習(第1~4番)、第1変奏曲
第2段階の連習(第5番)、第2変奏曲(=練習第6番)
第3段階の練習(第7番、カデンツァの練習)
第4段階の練習(第8番)、第3変奏曲(第9番)
第5段階の練習(第10番、親指が他指の下をくぐる練習)
5.音階練習*
全4ポジションの音階―全短・長調(オクターヴ、10度、6度、3度)
両手が反行する音階(同度、6度、3度)
両手が三度の音階(平行、反行)
両手が六度の音階、六度のグリッサンド
両手がオクターヴの音階
半音階(長短3度、6度、反行、両手が各々3度、6度、オクターヴの音階)
10度の演奏法
以上が、第一部の全体像である。1は、18世紀後期以来、多くのピアノ教則本のはじめに付された初歩的な楽典の知識である。19世紀前半から中庸にかけて、中産階級市民がとりわけ身近に、主体的に音楽にかかわったのは、家庭内での歌唱や楽器演奏であった。多くの家庭では歌、ギター、ピアノ、ハルモニウム、ハープの音が鳴り響いていた。音楽、とりわけピアノ音楽のたしなみは、ブルジョア社会におけるひとつの規範となっていたので、彼女・彼らがおそらく最初に音楽を学ぶ楽器、ピアノの教則本にこのような音楽の基礎知識が含まれているということは都合が良かったはずである。また、出版者側としても、その方がいっそう多くの利益を見込むことができたであろう。ヨーロッパの楽壇で多大な影響力を持っていた学者・作曲家のフェティスFrançois-Josef Fétis (1784-1871)がモシェレスIgnaz Moscheles(1794-1870)と共編した《緒メソッドのメソッドMéthode des Méthodes》(Paris :Schlesinger,1840)も同様の内容で始まっている。しかし、ドイツの雑誌では、この点について批判が起こることもあった。40年代に入り、人々はいまや音楽的教養を獲得しているのだから、このような部分は不要であろうというわけである。
1と2の項の内容は、今日の知識と重なる部分が多いので、ここからは3以降に注目していこう。3の「ピアニストに求められる質」で、カルクブレンナーは、ピアノ演奏の最重要ポイントについて、次のように述べている。
ピアニストにとって第一に重要な点は、右手で形成されうるあらゆる走句を、左手でも同じように練習することであり、もっとも完璧な均等性が両手を支配するように練習することである。
この両手の均等性を獲得するためにマスターしなければならない事柄として、彼は以下の6点を挙げている。
(1)5音の練習(ポジション移動をせずに5本指を動かし、指の独立を獲得する練習。譜例1参照)
譜例1 カルクブレンナー《メソッド》より練習第2番
(2)4ポジション[2オクターヴ]内でのあらゆる全音階と半音階
(3)3度の全音階、半音階、6度と和音の音階
(4)スラー、スタッカート、跳躍のあるオクターヴ
(5)単純カデンツァ、2重、3重、4重カデンツァ、主題のあるカデンツァ(譜例2、3参照)
譜例3 カルクブレンナー《メソッド》より練習第7番 主題を持つカデンツァ
(6)スラーと跳躍のあるパッセージ、手の交差を伴うパッセージ、これらの難技巧すべての結合。これらは、手を引きつらせることなく、難なく行われなければならない。
この《メソッド》では、これらのポイントの殆どが練習課題で徹底的に訓練されるようにプログラミングされている。これらの技術をマスターした後に目指す目標は表現力の獲得であった。これは理想の表現について、次のように述べている。
ピアニストは次の点を備えるようにならなければならない。燃え盛ることのない情熱、生硬ならざる力強さ、柔弱ならざる甘美さ。これが私の提案する目標である。このように考慮されたピアノ・フォルテは、あらゆる楽器の中でも、最上の楽器なのである。
ここから、彼の目指す音楽表現が、幾分控えめで、理性的なものであったということが分かる。これは、18世紀のクラヴサニストの精神に則ってアダンが主張した、演奏中の優雅な姿勢の維持とも関係している。過度に情熱的になって身体を揺すったりすることは、アダンの忌避するところであった(第4回参照)。実際にカルクブレンナーも、自身の演奏の特徴を身体の「静動性」に認めている。
では、彼はこのような表現のあり方を、いかなる手段によって可能したのだろうか。次回は、カルクブレンナーが理想とする表現様式を具体的に検討する。
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.piano.or.jp/mt/mt-tb.cgi/3290
コメントする