第10回 カルクブレンナーのピアノ・メソッド 2―手導器の発明
今回は、彼の《手導器を用いてピアノ・フォルテを学ぶためのメソッドMéthode pour apprendre le piano forte à l'aide du guide-main》(1831、以下《メソッド》)の序文から、彼が独自の演奏訓練法を発明するに至った過程とその可能性を紹介する。
前腕の力を用いずに、手首の力を効率よく用いるにはどうすればよいか。カルクブレンナーは試行錯誤の末、ある着想を得た。それは、ピアノのメカニスムにかかわることは、メカニック機械的な方法の助けを借りて学ばなければならない、という閃きであった。彼はまず、次のことに気づいた。
左手で右手首を支えると、完全に指に集中していた力は、それまで腕と手をこわばらせていたすべての力が増大すればそれだけ、大きくなった。
日本語として分かりにくい訳だが、この一文で、カルクブレンナーは、多くのことを語っている。これは、手首に支点を与えることによって、手や腕に入っていた力が指にシフトするということである。つまり、通常、鍵盤に手を置くと、腕の重みからくる指の負担を軽減するために、無意識のうちに肩や腕、背中がその負担を肩代わりする。そうすると、肩や腕に力が入り、連鎖的に手にも力入り、こわばってしまう。これは、一般的に長時間演奏を続けることによって肩こりが引き起こされるメカニスムであろう。そこで、手首を何らかの方法で支えてやると、それまで肩や腕が負担していた力が支点に集中し、肩、腕、そして手に余計な力が入らなくなる。そうなると、手の緊張が自然とほぐれ、手の本来の力が発揮できるのである。
支点をもつことが重要なのだ、ということに気づいたカルクブレンナーは、いてもたってもいられず、物置から古い椅子を引っ張り出してきて、一方の肘掛をのこぎりで切断した。そして、切り落とさなかった他方の肘掛を鍵盤のほうに向け、つまりちょうど椅子を横にする形で座った。そうして、肘掛を手首の支点としてピアノ演奏を試みたのである。
この椅子のくだり件は、一種のユーモアかもしれないが、いずれにせよ彼は手首を支える器具の発明によって、それなりの成果を得ることができた。彼はしばらく鍵盤の前に据えられたバーの上に手首を乗せ、指を動かす練習を行い、やがて技術練習の時間を有効に使うために、本を読みながらこの訓練をするようになった。
真の芸術家が知らねばならないすべてのことを会得するには、人生はあまりに短いものである[...]。ラファエロは、読書をしながら絵を書かねばならなかった。またヴォルテールは床に就いても、服を着ている間も、秘書に[詩を]書き取らせなければならなかった。これはすばらしい模範である。
こうした心構えには私も心底共感する。とはいえ指の練習をするのと、絵を書いたり詩作したりするのでといくらか事情が異なるような気がするが。
さて、彼がこの器具を用いて、まず着想した練習法は、ポジション移動をしない5つの音の練習であり、これは5本の指を独立させるための、第1段階の練習であった。そして、それが可能になった時点で、親指が他の指の下をくぐってポジション移動をする段階へと進む。すでにヴィルトゥオーソとして活躍していた名手が、再び振り出しに戻ってわが身を振り帰り、基礎練習に立ち返るというのは、なんとも殊勝な姿勢ではないだろうか。彼は、この基礎練習によって、彼の演奏の特徴である、身体の静動性を獲得した。つまり、手首の支点を利用して、腕の動きを最小限にとどめ、手首と指の力によって演奏することができるようになったのであった。
彼の一連の着想は、手導器という形で具体化され、1831年、《メソッド》の出版と同時に発売された。彼が《メソッド》に掲載した手導器のモデルは次のようなものである。
A :ピアノに手導器を固定するネジ釘
B :5音練習をするときに前腕を支えるバー
彼の説明によれば、これを用いることにより、地方に暮らす人でも、わざわざパリに出てきて有名な先生に習わなくとも、自分で練習ができ、しかも、悪い癖がつかないという。世のお母さん方は、これを用いれば、自分の子どもが先生から離れているときでも、子どもの技術を向上させることができるという。さらに、彼は、先生につかないでピアノを学びたい人でさえも、このメソッドと手導器を活用すれば、ある程度のレヴェルに達するとも述べている。これらは単なる宣伝文句に過ぎないが、教師いらずのこの夢のピアノ教育器具は、それなりに売り上げがあったことであろう。購入者に残されたただ一つの問題は、ピアノと向き合う忍耐力であった。
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
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