第08回 カルクブレンナー 1―経歴(2) 演奏、作曲、教育
前回、彼の生涯を駆け足で辿ったが、具体的な業績についてはあまり触れられなかったので、今回は演奏、作曲、教育という3領域における彼の業績をまとめておこう。
演奏の特徴
ショパン世代のピアニストたちが憧れたカルクブレンナーの演奏とは、一体どのようなものだったのだろうか。当然のことながら、当時は録音技術がまだ存在しなかったので、彼の演奏を聴いた人々や、彼自身の言説に頼るほかない。ちなみに、ピアニストたちが録音を始めたのは意外に早い。19世紀末から20世紀初頭には、すでにブラームスやサン=サーンスが蝋管に自身の音を記録した。前者のハンガリー舞曲の録音は、大部分が聞き取れないほど音質が悪いが、彼のテンポ感を知る上では有益な資料である。一方、サン=サーンスは《アフリカ》(1891)の即興カデンツァを披露している が、どんなに速いテンポでも粒のそろうその演奏には、スタマティを介して受け継がれたカルクブレンナーの流儀を、聞き取ることができるかもしれない。
彼の演奏の特徴は、手首と指の使い方にあった。打鍵には腕の力を利用せず、もっぱら手首と指の力を用い、10本の指が完全に独立して動くようにする。こうすることによって、オクターヴや三度の連続など、どんなに困難なパッセージでも自在に、しかも体力を無駄に消耗することなく演奏できるというのが彼の持論であった。さて、そのような演奏法は、どのような音を生み出したのだろうか。この点については、時代の証言者、マルモンテル(1816-1898)に委ねよう。カルクブレンナーの演奏について、彼は次のよう回想している。
クレメンティの後継者、近代的なピアノのエコールの創造者であるカルクブレンナーは、従うべき規範、理想的な演奏の典型として、クレメンティの驚くべきメカニスムを会得していた。彼はクレメンティの演奏を1803年にヴィーンでしばしば聴き、自身、その弟子であった。[...]ピアノは、彼の指にかかると、驚嘆すべき響きを生じたが、それは決して鋭い響きではなかった。それは、彼が力まかせの効果を追求していなかったからである。滑らかで気品があり、響きがよく、完璧な均等性を有する彼の演奏は、[...]いっそう多くの人々を魅了していた。そして、困難な走句を非の打ち所のないほどに演奏し、比類なきまで華麗に演奏する左手を有する点で、カルクブレンナーはヴィルトゥオーソとして一線を画している。さらに付け加えれば、指は完全に独立し、今日 、頻繁に見られる腕の動きは見られず、頭、身体の揺れもなく、完璧に姿勢を保つといった、これらの美点は、すべてまとめて、我々の忘れ得ないものであり、聴衆を聞く喜びへといざない、骨の折れる指の体操によって、聴衆の気をそらせることはない。カルクブレンナーのフレージングは、いくらか表情と人に伝わりやすい情熱を欠いていたが、それでも様式は常に高貴で真正であり、偉大なエコールに属するものであった。
身体、とりわけ前腕の動きの抑制、どの指も均等に動くという「指の独立」は、実際、彼の《手導器を用いてピアノ・フォルテを学ぶためのメソッドMéthode pour apprendre le piano forte à l'aide du guide-mains》(以下《メソッド》)において、最も重要な前提となっている。クレメンティとの師事関係の詳細ついてはまだ確認できていないが、1834年、シューマンの『新音楽新聞』で「カルクブレンナーはある点において、《グラドゥス・アド・パルナッスム》をフランスの口語に翻訳した」と報じられていることからも、周囲の音楽家の認識できる程度にクレメンティからの影響を受けていたことがわかる。
作曲活動
1830年代後半以降、彼は演奏活動から退いたものの、作曲活動は持続させ、亡くなるその年まで作品を発表し続けた。作品番号がついた作品は確認できただけで189にのぼり、その他、作品番号なしの作品が70点近く存在している。創作のほとんどはピアノ曲が占め、ピアノ・ソナタ、幻想曲、変奏曲、フーガ、ピアノ協奏曲(5曲、うち1曲は2台ピアノのための協奏曲)、練習曲が主な創作ジャンルである。このうちピアニストとして重要なジャンルは協奏曲と幻想曲、変奏曲である。カルクブレンナーの活躍した30年代、ピアノの演奏会で他人の曲を演奏するということは稀で、ほとんどが自作の変奏曲、即興からなっていた。資料上、彼は39年以降、健康を害しステージを降りるが、晩年まで即興的なジャンルである幻想曲を書き続けている。彼はおそらく晩年まで個人なサロンで演奏を続けていたのであろう。
ピアノ・ソナタとフーガはピアニストの学識を証明するジャンルである。12曲の2手用ピアノ・ソナタ、4手用、左手用ピアノ・ソナタがそれぞれ2曲ずつある。《ピアノ・ソナタ 変イ長調》作品177(1846)以外は、すべてパリに戻ってくる20年代初めまでに出版されている。この作品177は、パリで著名なピアニストとなっていたタールベルクに献呈されており、典型的な形式を採用しながらも、意匠を凝らした和声の序奏をつけるなど、新しい世代の様式を積極的に取り入れようとする姿勢が窺われる。彼が主として練習曲で追求した指の独立、両手の独立は第1楽章によく反映されている。譜例1は第1楽章の展開部の一節である。カルクブレンナーは、右手に見られるような多声のパッセージを弾くために、10本の指を独立させる訓練を重視していた。譜例2も同じく第1楽章の展開部の一節で、3度の音階は3拍目で反行し、広がる。平行・反行するさまざまな音階をマスターすることは、彼の《メソッド》でも重視されている。
譜例 1 第1楽章 展開部譜例2 同上
カルクブレンナーにはショパンに献呈した作品もある。19世紀、ピアニストたちは、自作を出版する際、表紙に献辞を掲げて互いに敬意を表し合ったが、時には誤解もあったであろう。彼の《若い娘のお喋り?はかない思いCauserie de jeunnes filles―Pensée fugitive》(譜例3、曲冒頭)は、わずか4ページのサロン・ピースで、タールベルクに献呈されたソナタとは対照的に、ショパンのヴィルトゥオジティが反映されていない。このタイトルからしても、カルクブレンナーは、ショパンをもっぱらサロン音楽家とみなしていたのかもしれない。
譜例3 Kalkbrenner Causerie de jeunnes filles―Pensée fugitive 冒頭教育活動
複数のエチュード集と《メソッド》は、彼の教育方針を如実に表している。彼は、手導器という器具を用いる練習を生徒に推奨していた。これは鍵盤に平行に取り付けられたバーに前腕をのせ、手首の力で演奏できるように考案されたものでる。この《メソッド》と手導器は、1831年に、フランス全国に向けて発売された。もちろん、彼自身も同年にプレイエル社で開始したピアノ教師養成コースで、この器具を活用していた。このコースは、男子クラス、女子クラス各4人の編成で個人レッスンを行っており、3年で終了するコースである。レッスン料は一回15フラン、1フランを1000円で換算すれば15000円のレッスンである。おそらくショパンやヘラーはこのコースを受講するよう勧誘を受けていたのであろう。
最後に、彼の人格について簡単に触れておこう。カルクブレンナーは、虚栄心の強い人物であったらしく、フランスやイタリアの貴族との交際を鼻にかけていた。こんな逸話がある。フランス7月王政期の国王ルイ・フィリップ(在1830-1848)に謁見したとき、カルクブレンナーは王の好意により大貴族の身分を勧められた。ところが、彼は、王の申し出を拒否したのである。その理由はこうであった。「私は政治家ではないし、それに自身の完全な独立を保ちたいのだ」このような彼の言動は、周囲の顰蹙を買っていたが、駆け出しのころから順風満帆の航路を滑り、一大スターに上り詰めた経緯を考えれば無理もないであろう。
さて、ようやくこれでカルクブレンナーという人物像の輪郭が出来上がってきた。これらを踏まえた上で、次回からようやく、彼の《メソッド》を話題の中心に据えることにしよう。
Saint-Saës, Camille. Africa improvised cadenza. Saint-Saës, piano, arbiter: 150(CD), 19. Recorded 1904, releaced 2006. 訳注:1888年現在。筆者は以下の文献を参照している。Antoine Marmontel. Les pianistes célèbres, (1st ed. Paris: Heugel, 1878). 2nd ed. Paris: Heugel, 1888.
上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。
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