第07回 カルクブレンナー 1―経歴(1)

第07回 カルクブレンナー 1―経歴(1)

2008/01/18 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 

カルクブレンナーの演奏法に触れる前に、2回に亘り、この人物の経歴を概観しておこう。というのも、この後に取り上げる、彼の《手導器を用いたピアノ・フォルテ学習のためのメソッド》(1831)の位置づけを、多少なりとも把握しやすくするためである。


1.出発点―初期教育とパリ音楽院

フレデリック・カルクブレンナーは1785年、ドイツのカッセルからベルリンへの移動中に誕生した。彼の父はやはり音楽家で、1789年からベルリンで、1801年からはラインスベルク[?]で、カペルマイスターを歴任し、その後はフランスのオペラ座で合唱隊長の地位につき、オペラ、カンタータ、オラトリオなど多くの声楽作品を残した。フレデリック・カルクブレンナーはこのように音楽の才能豊かな父から、初期の音楽教育を施された。そして前回触れたように、1799年から1801年にかけてパリ音楽院のルイ・アダンにピアノを師事し、優秀な成績を収めた。その一方で、彼は名高い音楽院の作曲家・教師であったカテルCharles-Simon Catel(1773-1830)に和声と作曲を学んだ。彼の作品には意表をつく転調、色彩感溢れる和声、厳格なフーガ書法などが見られるが、このような幅広い音楽的教養は、彼の指導の下で培われたのであろう。後に音楽院教授となったマルモンテルは、「常に正確で、非の打ち所がなく、非常に対話的な和声」を彼の作品の美点として挙げている。カルクブレンナー自身、最晩年の1849年に《ピアニストの和声教程Traité d'harmonie du pianiste》を出版している。


2.ヴィーン滞在、ロンドンへ?名声確立期

1803年から彼はパリを離れ、ヴィーンに滞在する。彼はこの都市で、すでに創作活動を退いていた老ハイドン(1732-1809)から音楽の手ほどきを受け、また、演奏旅行中のイギリスの大家、M.クレメンティ(1752-1832)の演奏を聴く機会を得、多大な感化を受けた。クレメンティは、クラマーJohan Baptist Cramer(1771-1858)やフィールドJohn Field(1782-1837)といった名手を育てた名教師であり、名高い練習曲集《グラドゥス・アド・パルナッスムGradus ad Parnassum》の著者である。彼の弟子、August Alexander Klengel(1783-1852)は、のちにカルクブレンナーの作品を共演するなど、彼と友好的関係を築いた人物の一人である。ヴィーン滞在期間は文献によって見解が分かれているが、一年から三年間であった。父の死に接し、フランスに呼び戻されたのち、彼は、1814年、今度はロンドンに移住し、そのまま10年間ここに住むことになる。イギリスで彼はセンセーションを巻き起こし、その名声はクレメンティの高弟、クラマーの名声それをも凌ぐ勢いで拡大した。その間、イギリスにとどまらず、彼は大陸へも足を運んだ。マルモンテルによれば、彼は毎年フランスに戻っていたし、また1817年にはドイツ・ツアーを敢行し、ヴィルトゥオーソとしての名声を確立した。さらに、23年、彼は自身の《協奏曲第1番 作品61》で成功したのを皮切りに、ドイツ、アイルランド、スコットランドで成功を収め、いまや演奏家、教師として国際的名声を博し、一躍、時の人となったのであった。


3.再びパリへ―名声の絶頂期

1824年の暮れ、彼は「故郷」のパリに居を定めた。ここでカルクブレンナーはピアノ製造業者、カミーユ・プレイエルと手を結び、会社の経営に携わるようになった。すでに名声を獲得していたカルクブレンナーは、プレイエル社に威信をもたらし、楽器の改良に寄与した。また、プレイエルは新たなピアノの可能性を彼に提示したであろう。パリばかりでなく、彼の名声はイギリス、ドイツ、ベルギーにまで及び、一流のピアニスト、作曲家、教師として活躍した。彼は、次世代を担う若いピアニストにとっても、スター的存在であった。パリにやってきたばかりのショパンも例に漏れず、一時的にカルクブレンナーに心酔していた一人である。友人に宛てた手紙でショパンは「僕がどんなにヘルツやリストやヒラーらに興味を持っていたか、君は分かってくれるだろうか。でもこういう人たちも、カルクブレンナーに比べたらゼロみたいなものだ」(1)と熱っぽく語っている。だが翌年にはショパンのカルクブレンナー熱もすっかり冷めてしまい、それどころか彼の演奏美学に反対的立場を表明するようにすらなった。ちなみにヘルツ(フランスではエルツ)、ヒラーはいずれも1830年代のパリで、リストらとともにヴィルトゥオーソとして名声を博したピアニスト・作曲家である。いずれ彼らのことも紹介しよう。

1831年、パリ随一のピアノ教師となった彼は《手導器を用いたピアノ・フォルテ学習のためのメソッドMéthode pour apprendre le piano forte à l'aide du guide-mains》を出版し、人々に感銘をあたえた自身の演奏奥義を公開した。彼は、ショパンやヘラーといった有望なピアニストたちに、このメソッドに即したレッスンを受けるよう促した。1831年にこの申し出を受けたショパンはしかし、ポーランドの恩師エルスネルに相談した上で、この申し出を断り、自身の道を進むことを選んだ。それでも、カルクブレンナーは多くの優れた弟子を抱えており、次世代のスタマティ、サン=サーンスへと彼の教えが伝承されていったことは前回述べたとおりである。

いまや演奏家、作曲家、教師として、不動の名声を確立したカルクブレンナーであったが、1830年代中ごろから、演奏家のキャリアに陰りが見え始める。ショパン世代の作曲家が次々に頭角を現し始め、聴衆の趣味を動かし始めたのである。さらに悪いことには、彼の健康は少しずつ蝕まれていた。痛風と神経障害をきたし、1839年以降は、演奏活動から引退するのやむなきに至るのである。晩年、彼は伝染病にかかり、悲劇的な最期をむかえた。1849年、奇しくも彼はショパンと共に?正確には4ヶ月だけ早く?63歳の生涯を閉じたのであった。


1 ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン―そのピアノ教育法と演奏美学』、中島弘二、米谷治郎訳(音楽之友社、2005年)、231~232頁。

上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。

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