第05回 1810年代・20年代生まれの作曲家概観

第05回 1810年代・20年代生まれの作曲家概観

2007/11/16 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 

ここまで3回に亘って、アダンの《メソッド》を通して19世紀前半におけるフランス・ピアニズム(正確にはパリ音楽院のピアニズム)の源流を見てきた。未だショパンと同世代の作曲家の話に至らないが、これは19世紀前半におけるフランス・ピアノ音楽の系譜の出発点を垣間見るためであった。

 さて、今回は、ワンクッションおいて、当時の演奏と作曲ということについて書こうと思う。今日、クラシックのジャンルでは演奏は演奏家が、作曲は作曲家が、そして研究は研究者がそれぞれ専門に行っている。これは一見当たり前のようだが、19世紀以前から20世紀初頭までは少なくとも演奏家と作曲家は一人の人格が兼ねていた。自身の弾く曲は自給しなければならなかったのだ。なぜ、100年以上前は、こうも状況が違ったのだろうか?ピアノに関していえば、その理由のひとつは楽器の開発にある。アダンが《メソッド》を書いた頃、最新のピアノのためのレパートリーはまだ多くは書かれていなかった。それゆえ、バッハやスカルラッティ、モーツァルトといった過去のクラヴィーア作品をピアノで演奏した。過去の遺産に、最新のピアノに適した強弱記号、楽想記号、指使いを与えて「ピアノ曲」に変えてしまうわけである。《メソッド》には、アダンが「編集」した彼らの作品がいくつも収められている。

 しかし、19世紀に入ると産業革命の波が押し寄せ、ピアノ製造業が一気に開花する。フランスではプレイエル社とエラール社がその大手となり、鍵盤の音域やアクションが次々に拡大・改良されていくのである。そうなってくると、ピアニストたちは常に新しいピアノに対応できるだけのレパートリーを必然的に書かなければならなくなる。そして多くのピアニストたちは、ピアノに何ができるか、あらゆる可能性を追求しながら、自らのレパートリー開拓に乗り出したのである。時には難技巧を満載して他のピアニストを挑発し、それに触発される形で次々に他のヴィルトゥオーソ・ピアニストたちは新たな可能性を追求した。

このピアノの大進展期のちょうど始まりに生を受けたのが、1810年代生まれのショパン世代のピアニスト・コンポーザーである。つまり彼らはいわば近代ピアノ音楽の第1世代にあたるわけである。この世代を担った人々の一部を以下に示す。これを見れば、この世代がリストとショパンのみに代表されるのではないことが分かるであろう。図1は、パリで名が通っていた著名な「外国人」ピアニストたちのリトグラフで、1843年、パリで出版されていた音楽雑誌ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル紙上で「著名なピアニストたち」として紹介された。パリには各地から優れたピアニストが集まっていたのである。

(はパリ音楽院出身者)
Frédéric Chopin 1810-1849 Adolf von Henselt 1814-1889
Antoine François Marmontel 1816-1898 Alfred Quidant 1815-1893
Edouard Wolff 1816-1880 Leopold von Meyer 1816-1883
Johann Georg Kastner 1810-1867 Joseph Gregoire 1817-1876
Robert Schumann 1811-1856 Emile Prudent 1817-1863
Camille Marie Stamaty 1811-1870 Josef Leybach 1817-1891
Félix Le Couppey 1811-1887 Antoine de Kontski 1817-1899
Ambroise Thomas 1811-1886 Lefébure-Welly 1817-1869
Henri Rosellen 1811-1876 Henry Litolff 1818-1891
Franz Liszt 1811-1886 Henri Ravina 1818-1906
Ferdinand Hiller 1811-1885 Charles Gounod 1818-1893
Sigmont Thalberg 1812-1871 Felix Godefroid 1818-1897
Joseph Schad 1812-1879 Alexandre Dreyschock 1818-1869
Stephen Heller 1814-1888[?] Stefano Gorinelli 1818-1891
Charles Valentin Alkan 1813-1888 Louis Lacomb 1818-1884
Jakob Rosenhain 1813-1894 Adolf Gutmann 1819-1882
Theodor Döhler 1814-1856 Jean Pierre Oscar Comettant 1819-1898
Pierre Alexandre Croisez 1814-1886

図1
図1 Anne-Rpusselin-Lacombe "Piano et pianistes" in La musique en France à l'époque romantique 1830-1870 (France: Flammarion,1991)の 挿絵より転載。()は出身地。後列左より順に、ローゼンハインJ. Rosenhain(マンハイム)、デーラーTh. Döhler(ナポリ), ショパンF. Chopin(ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラ)、 タールベルクS. Thalberg(ジュネーヴ), 前列左より順にヴォルフEd. Wolff(ワルシャワ), ヘンゼルトA. v. Henselt(バイエルン), リストF. Liszt(ライディング)

彼らは皆、当時パリで名前が通っていたピアニストたちである。興味深いのは、彼らがピアニストでありながらピアノと他の楽器を兼ねていたり、交響曲やカンタータといった他ジャンルの創作に手を染めていたりする点である。あるいは、中にはピアノを勉強しながらもオペラの道で大成した人物もいる。例えば、スタマティStamaty、アルカンAlkan、ルフェビュル=ヴェリーLefébure-Wellyはオルガニストとしても活躍し、オルガンのための作品を残しているし、ヒラーHillerやRosenheinはカンタータ、交響曲を作曲している。また、ゴドフロワGodefroidはハープ奏者でもあった。逆に、トマグノーのようにローマ大賞を得てオペラ作曲家として大成した人物でも、パリ音楽院でピアノを学び、そのための作品を書いている。参考までに、グートマンGutmannはショパンの愛弟子であり、音楽院のアルカンAlkanとその師ヅィメルマン、そして自身の師であるショパンと8手連弾をしたことがある。またヴォルフWolffはショパンと同世代のポーランド人で、パリで活躍した彼の同僚である。

彼らは、どのようなジャンルで活躍したにせよ、ピアノの道を通らないわけにはいかなかったのである。ベルリオーズのような例外はあるにせよ、ピアノは、作曲家にとっていまや必須の楽器となっていた。そして彼らは等しくピアノの可能性に期待を抱き、レパートリーの開拓に着手したのである。ピアノという楽器の進展が作曲家に強力な影響を及ぼし、彼らの想像力を強烈に刺激したのは、19世紀のちょうど半ばころまでであり、それはちょうど、音楽院ピアノ科教授ジメルマンの退任とマルモンテルの教授就任、それに続く二月革命、そして翌年のショパンの死と重なる。この1810年ころから1850年ころまでの間、ピアノの発展とともに成長した世代は、1810年世代に加え、1820年代生まれの世代が含まれるということになるのである。

つまり、近代ピアノ音楽がもっとも推進力を持っていたいわゆる「黄金時代」とは、1810年代から20年代生まれの作曲家たちが創り上げたのだといえよう。ここにまた、20年代生まれの作曲家のうちの何名かの名を列挙する。

(はパリ音楽院出身者)
Adrian Talexy1820?-1891
Willhelm Krüger1820-1883
Frédéric Brisson1821-?
César Franck1822-1890
Alexandre Goria1823-1903
Carl Reinecke1824-1910
Julius Schulhoff1825-1898
Napoléon Alkan1826-1906
George Mathias1826-1910
Edouard Silas1827-1909
Paul Bernard1827-1879
Auguste Dupont1827(8?)-1890
Désir Magnus1828-?
Adolfo Fumagalli1828-1856
Charles Delioux1828(30?)-1915?
Ernst Lübeck1829-1876
Anton Rubinstein1829-1894

マティアスMatiasは1862年から87年までパリ音楽院でピアノを教えた。彼はショパンの弟子であったが、その作風はショパンとはかけ離れたものである。彼のop.10は、ショパンの黒鍵エチュードと前奏曲を編作したエチュードで、前者では原曲の右手が左手に置き換えられ、右手には新たな旋律が割り当てられる。こうしたピアノ演奏のメカニックな側面の探求は、マティアスの弟子で後のパリ音楽院ピアノ科教授、イシドール・フィリップIsidor Philippeの姿勢に通じるものがある。フィリップは効率的な演奏技法の習得を目指し、自他問わず、膨大な量のメソッドやエチュードを編纂した。自著には《ショパンの曲による毎日の練習》がある。

ドゥリューDeliouxもショパンの弟子かは定かではないが、近親者として知られていたようである。彼の《訓練全教程Cours complet d'exercices op.86》は音楽院のピアノ指導に用いられた体系的なピアノ・メソッドで、マティアスと同様、ピアノ演奏のメカニズム完成への意志が現れている。しかしその作品は技術的な難しさばかりに走るのではなく、たとえば《華麗なワルツValse brilliant op.12》では優雅で効果的な音響を創り出している。

さて、個々の作曲家については後々詳述するつもりなのでこのくらいにして、とりあえず、作曲と演奏を同時に行うピアニストの第1世代が多勢存在していたということがお分かりいただけたであろう。彼らは一人あたり少なくとも80曲、多い場合には400曲以上を書いている。

楽器の急速な発展と歩みをともにした彼らは、あらゆる可能性を追求しながら、ファンタジーやカプリス、エチュード、オペラ・パラフレーズ、ソナタ、無言歌romance sans parolesなどを出版した。そしてそれらは、19世紀における膨大なピアノのレパートリーカタログを形成したのであった。しかし、作曲家や編曲家の数は、上に挙げた何倍も存在したので、その作品の量はあまりに多く、むしろ今日のようにレパートリーとして定着することはまれであった。したがって、厳密な評価を受ける間もなく忘れられていったきらいがある。しかし、ショパンの作品は早くからその作品が音楽院の試験曲として採用されたこともあって、しばしば作曲者以外のピアニストによって演奏されていた点で、例外的な存在であろう。

上田 泰史
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、現在、同大学院修士課程に在籍中。卒業論文に『シャルル・ヴァランタン・アルカンのピアノ・トランスクリプション』(2006)。安宅賞、アカンサス賞受賞。

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