連載:第12回 「ピアノ道」と「引き出し術」
いただいたメールから
「統計(連載第10回)を見てびっくりしました。 『25練習曲』は小学校高学年になってから取り組む曲集だったんですね。 どおりで私には意味不明だったはずだ。 わたしはブルグミュラーを習っていた当時(幼稚園)、 意味がさっぱりわからず、 なんとなくテクニックができたら終わってしまった。 曲想の勉強とかはしなかったのです。
だから私にとって「25練習曲」は印象の薄い曲集なんだろうなぁと思いました。 熱烈にやりたい!って思ったことはなかったし、 いつのまにか終わっていたし、 友とこれについて語ることもなかったし。
なんてもったいない!
残念ながら、私の幼少期のピアノ教育って 若干間違っていたんじゃないかと思う。」
これは、インドネシアの音楽であるガムラン奏者として現在活躍中の伏木香織さんが、私に個人的に寄せてくださったメールの一部です(ご本人の許可を得て掲載しています)。
彼女は私の大学からの先輩ですが、同世代と言わせていただいていい方です。幼稚園のころに弾いていたというのは、当時でも進みの早い子だったと思います。それでも、「テクニックができたら終わってしまった」とか「曲想の勉強はしなかった」というこの彼女の言葉にある感覚は、元「昭和ピアノ少年少女」たちにとってある程度共通に抱かれるものではないでしょうか。
そしてまた、私と同世代の30代の方、あるいはもっと年代が上でも下でも、「ピアノの先生の厳しいご指導についていかれず、ピアノを止めてしまった」という話がよくあったと思います。生徒である私たちは、先生がおっしゃられたとおりに弾けなければ子供ながらに自分を責め、ときに緊張で身体がこわばらせたりもしたものです。友達がみんな卒業している曲を、まだ自分が○をもらえずにいることに不安を感じたり、レッスンでも涙を浮かべてしまったり・・・。
がんばる「ピアノ道」とは
「エースをねらえ!」や「アタックNo.1」などの、いわゆる「スポ根」もののテレビアニメ世代にあっては、「先生からの愛のムチ」に耐える姿勢には、それなりの美学があった。ひたすらに歯を食いしばってがんばる姿は美しかったのだ。がんばり屋さんこそ、すごいのだ。
そもそも日本は「型」の文化。伝統芸能のお能や歌舞伎は、まずは型が自分のものとならなきゃいけない。師の型を徹底的に真似ることこそ道の一歩。書道だって、楷書の基礎があってこそ流れるように崩すことができる。
だからやっぱり「ピアノ道」にも正しいお手本がなくてはなりません。レッスンでは指の形、曲調の型を学習し、有名な先生のレコードなども聞き、解説を読んでは、日夜努力に励むのです。
そんな風にして、難しくても一生懸命、きちんとしっかりお勉強をして練習をして取り組んで、早く終わるようにがんばりましょう。ブルグミュラーはできるだけ早く終わって、はやく「ソナチネ」やショパンに行きましょう。
・・・・・・
こんな言説ありませんでしたか?私たちの「ピアノのお稽古」のまわりに。いつも寄り添うようにして・・・。
「ピアノを習う」ということは、この厳しい「ピアノ道」を歩みきることができるかどうかだったのでしょうか。そうばかりではなかったはずです。「ピアノ道」以前に、私たちが鍵盤に触れる喜びをどうして知っていたのかといえば、時にキラリと光る自分の音楽を感じていたからに他ならないのではないでしょうか。
このコーナーの連載で何度か触れてきたことですが、きちんとした型=基礎、そして自分の音楽=自由、このどちらも欠けてはならないと思います。この両輪によってこそ、私たちの音楽は紡ぎだされていくのですから。
インタビューを通して見える「引き出し術」
「みんなのブルグミュラー」ピアノ指導者からのアンケート回答には、「その生徒自身の音楽を引き出してあげたい」「ブルグミュラーを弾いたことが、残るようにしてあげたい」といった声が多く寄せられてきます。
茨城県稲敷郡美浦村にある「こぐま音楽教室」を主宰される高橋ユリ先生は、ブルグミュラーを与える前に、生徒たちに「自分の音楽」を感じ取らせる工夫をなさっています。※
・25曲の印象を言葉に起こすためのプリントを用意。
・演奏を10曲に絞り込む。うち5曲は生徒自身に順番も選曲も任せる。
・楽語などの基礎を自分の手で書き込ませる。
・物語をつくって書かせてみる。
・楽曲のイメージ喚起のために、絵など資料の収集をする。
などなど・・・。
また実際に演奏させる以前に、じつに多くの時間をかけて言葉の対話をなさるそうです。子供たちに、できるだけ多くのことを感じとらせることが出発点。
そうして引き出され、紡ぎだされていく生徒たちの演奏、音楽・・・。
個人が本来もっている感じとる心や、想像する力、それらを音として実現させること。もっているものを引き出させる方法論。こうした「引き出し」系のレッスンが現代日本のピアノ教育の現場のあちこちで起こってきているのだということに、元「昭和ピアノ少女」である筆者は驚き、感動してしまいます!またそうした教育概念のもとにピアノを前にする「今」の子供たちにはうらやましさすら感じてしまいます。
高橋先生によれば、こうした「引き出し」系の教育が目立ってきたのはここ2,3年とのこと。「講習会や著作が多く見受けられるようになりました。そうしたものには積極的に参加し、目を通すようにしています。」
「弾くこと」の複数の姿
「なんてもったいない!」という上述の伏木さんメールの言葉には、引き出すものを存分に引き出さずじまいで通り過ぎてしまった彼女のくやしさのようなものが感じ取れます。
「引き出し」の中味はまた、一個人の中でも移り変わっていくものです。私たちは、自分自身がピアノを「弾くこと」のあり方に対して、どん欲になっていいのだと思います。昨日と今日では、去年と今年では、子供のころと大人になってからでは音が違う。音楽も違う。そしてまた、「私」と「あなた」では、これまた違う。同じ曲でも絶対に同じようには弾けない。どれもすべて、掛け替えのない音楽。
ブルグミュラーの用意した25の港から、果てることのないピアノ曲の海へ。港はしっかり作ることが大切なのだと感じます。でもそこからは、どんな大きさ、形の船でも出港できるように・・・。
そんな港作りを日々指導されるピアノ指導者の先生方に、心から敬意を表したいと思います。
アンケートや取材にご協力いただきました指導者の皆様、ありがとうございました。
音楽ライター、翻訳家。1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科修士課程修了。マッコーリー大学院翻訳通訳修了。ピティナ「みんなのブルグミュラー」連載中。