連載:第07回 楽譜から見えるもの~江崎先生インタビュー後半
今回は先週に引き続き、5月2日に行った江崎光世先生のインタビュー後半の内容と、楽譜にまつわるお話をまとめてみたいと思います。
江崎光世先生は、2006年1月に音楽之友社より発売された「25の練習曲 New Edition」に協力者として携わっておられます。
楽譜ができるまでの裏舞台
じつに多くの書類たち!これらは、「New Edition」解説者である作曲家の春畑セロリさんとのやりとりをなさった書類だそうです。今回の版は、楽譜そのものはウィーン原典版を素材とし、そこに春畑氏と江崎先生が、ピアノ指導者や学習者のためにユニークな解説やヒント、引き出すべきポイントなどを付けられています。その舞台裏には、解説の言葉をひとつひとつ練りあげて、意見を交わしていくという丁寧な作業があるわけです。タイトルについても、ずいぶんと意見交換をなさったとのこと。「貴婦人の乗馬」については、「麗しい騎士」という案もあったとか!こうした舞台裏は普段わたしたちのもとには届かない話ではありますが、その一端を知ると、なにか作品そのものの奥行きを感じられるような気がします。
研究に研究を
江崎先生のお手持ちの「25練習曲」各社版の楽譜をいくつか見せていただきました。どの楽譜にもびっしりとアンダーラインや書き込みがなされています。いくつかのものは、学習者というよりも指導者用に設定された、詳細にわたる解説が付けられています。全音楽譜出版社のものでは、調性・拍子・デュナーミク・テンポなどについて、25曲を俯瞰できるような一覧がありますし、カワイ出版の「トレーニング・オブ・アナリーゼ」(残念ながら現在絶版とのこと)やエー・ティー・エヌ「レスナーのための」では、きわめて専門的で詳細なレベルまで、形式の分析や指導のポイントが記されています。こうしたものを見ると「25練習曲」は今や、演奏論的には研究が隅々まで行き届いているように思われます。余すところなく語られつくしたこの教材。あとは指導者や学習者が、なにをどう参考書として選択していくべきか、考えていかなければなりません。「指導者である先生方は、一度はアナリーゼものの版に目を通して、よく勉強しておくべきでしょう」江崎先生からそのようにアドヴァイスいただきました。
違いをよく知り、生かす
わたしたちはなるべく多くの版に目を通すのがよいと思います。せっかく研究されつくしている「25練習曲」ですから、吸収できる情報量も、他の練習曲集より圧倒的に多いはずです。とりわけ指導者の先生方にとっては、多方面からとらえた楽曲像はおのずとレッスンに反映されていくでしょう。生徒は通常、手にする楽譜は1冊です。1冊の楽譜。その1冊1冊が、各社によってずいぶん違うということは、比較できればとても面白い点でありますが、たいていの学習者のように比較できる環境になければ、音楽にたいして偏ったアプローチをしてしまう可能性もあります。
実際に私は、今回のインタビューに備えて、全音楽譜出版社の版(以下、全音版)と、音楽之友社の版(以下、音友版)とを譜面台に並べ、引き比べてみました。そのとき、驚くべき体験をしたのです。
下の引用符を見て、すぐにお気づきになることがあるかと思います。スラーの長さです。全音版は長め、音友版は短めです。つまりは、このスラーの「意味」が両者の版でまったく違うのです。
全音版は音楽としての大きな繋がり感やまとまり感、通常フレージングと言われるものを指しています。音友版は指への重圧のかけ方やアクセントの置き方、通常アーティキュレーション、弦楽器でいうボウイングのようなものを指しています。
全音版音友版
解説抜きに楽譜に向き合ったとしましょう。その場合、どういうことが起こるか。私は最初、音友版で「前進」を弾くことができませんでした。これはアーティキュレーションとしてのスラーを、フレージングとしてのスラーとして読み違えた結果です。長年全音版で慣れ親しんでいた私は、明らかに違和感を覚えました。音友版の解説をよくみると、これはフレージングのスラーでないことがわかりました。(とはいえ、個人的には全音版の「進歩」のほうが、やはり弾きやすいようには感じます。)
全音版音友版
全音版の「すなおな心」は非常に息の長いフレージングです。音楽のつくりとして自然な息づかいです。しかしアーティキュレーションとして音友の「素直」のように記されていると「一音一音がドタドタならないように気をつけよう」という意思が働きます。大枠としてのフレージングを全音版で確認しつつ、音友版で一音ずつの重みを丁寧に読み込む・・・。大変ではありますが、楽しい作業です。
このように、私は2冊の楽譜から読み取ることができました。しかし、1冊しか持たない通常の学習者は、どの版を選ぶにしても、その1冊を読み違えてしまうと、音楽のつくり方を誤ってしまいがちです。生徒が立体的な音楽作りができるように、指導者は複合的な知識を生かしていく必要があります。その手引きとなる楽譜が「25練習曲」の場合、豊富にあるということです。上手に利用していきたいものですね。
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さて、目下「みんなのブルグミュラー」のコーナーでは、近日中に25練習曲の音源を公開予定です。どうぞお楽しみに!
※当ページに引用した譜例は、(株)音楽之友社、および(株)全音楽譜出版社の許諾を得て、掲載いたしました。
音楽ライター、翻訳家。1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科修士課程修了。マッコーリー大学院翻訳通訳修了。ピティナ「みんなのブルグミュラー」連載中。