フランツ・リスト 第9回(最終回):御前演奏と慈善活動
第9回(最終回):御前演奏と慈善活動
若いうちに才能を浪費したり、幸福を享受しすぎたりすると、生涯の運のストックが目減りするなどという話を聴いたことがありますが、リストの場合は、幼少期から、あれほどの名声を得ながら、74歳まで寿命を全うしました。無償でレッスンを行ったり、若い芸術家に金銭的支援を施したりしたことが、運の「貯金」に役立ったのかもしれません。こうした実生活上での善行は、子ども時代に既に芽生えていた信仰心が背景にあるのかもしれません。第1段落では、リストが1860年ころ、フランス皇帝の御前でショパンの「葬送行進曲」を演奏したときの回想が語られます。第二段落は、上に述べた人格者としてのリストに光があてられ、最後はお決まりの人相描写で閉じられます。
フランツ・リストは、ナポレオン三世の治世下で、レジョン・ドヌールの三等勲章に昇格した。この皇帝は、音楽好きではなかったが、オベールが当意即妙の才でもって話を盛り上げると、芸術談義に興味を示していた。ある内輪の夜会のためにチュイリュリー宮殿に招待されたリストは、皇后に、彼女のお気に入りの曲、ショパンの葬送行進曲を演奏するよう請われた。この大ヴィルトゥオーソは、たいへん深い詩的感情、悲痛でたいへん真実味ある、心に伝わりやすい表現力でもってこの作品を演奏したので、聴衆は演奏に感動して涙さえ流した。姉のアルバ公爵夫人1を亡くしたばかりの皇后は、たいへん強く心を揺さぶられ、感激しながらリストに礼を述べた。皇帝もまた、この芸術家に好意を示して、美術大臣に、既に得た階位よりもいっそう高い階位の称号を授けるよう仰せ付けたのだった。ところで、このより高い階位の称号というのが、レジョン・ドヌールの三等勲章だったというわけだ。高名な作曲家の中でも、ケルビーニ、ロッシーニ、マイヤベーア、オベール2、アレヴィだけが、この高い名誉称号を既に授与されていた。アンブロワーズ・トマ、シャルル・グノー、ヴェルディはといえば、まだ 四等勲章しか授与されていなかった。
人間としての、美しく、高貴な美点について語らずに、大ヴィルトゥオーソ、大音楽家の肖像を駆け足で閉じてしまうのは、不当であろう。気前良すぎるほど寛大で、予見できない先々のことは全く考えず、すべての不運な芸術家に広く奨学金を与え、不幸な人ならだれでも援助の手を差し伸べ、慈善活動や芸術的企画には真っ先に出資し、王や――時には小市民のように振舞う――大貴族の如く、気前よく振る舞う。そんなリストは、芸術の進歩と不運に見舞われた芸術家の慰藉に、数え切れないほどの演奏会で集めた相当な金額の大部分を捧げた。ここに、リストが、ヴィルトゥオジティにおいて、彼の高名なライバルであるパガニーニ――彼が貪欲さで有名だったことは、今なお伝説として残っている――とは、はっきり異なる点がある。
エラール夫人は、[画家]アリ・シェフェールの手になる、きわめて美しい、若きリストの肖像を所有している。そこに描かれたハンガリーの大家は、バイロン3風の詩人が持つ風采と外観を呈している。こんにちでは、顔の線は、ダンテのメダイヨンを大いに思い起こさせる。冷静で、気高い風体で、眼差しは、若いころの活気と力強さを宿し、口は大きく、しばしば半笑で緊張しており、鼻は際立ち、額は後方に傾斜しており、銀色の髪はたいへんふさふさと生え、すべて後ろにすき上げられている。全人生が、この魅惑的な目に隠された。群集の熱狂の幾ばくかを留めたその目は、多くの喝采を生み出した輝ける源泉を映し出している。人はこのヴィルトゥオーソ、そして作曲家[としてのリスト]、彼の複雑な人格について論議の余地はあっても、活力と、聴き手との親密かつ直接的なコミュニケーション能力を備えた人間[としてのリスト]となると、彼は比類なき存在である。こうした行動能力と、熱狂しやすい気質は、時に趣味の欠如の原因となったが、今後も変わらず、彼を偉大な存在にしていくことだろう。リストは非常に大目にみなければならない人間の一人である。なぜなら、そうした人々はたいへんに愛されたのだから。
この伝記研究の第二版は、1888年1月6日と14日に、一週間を隔てて、死が二人の芸術家を襲った折に、印刷されていた。私は、彼らを最も親愛なる友人の数に入れるという光栄に浴したのである――アンリ・エルツとステファン・ヘラー。
私は、高名な両大家に最後の別れを捧げる。私は彼らの人生ついて語り、作品を評価した彼ら、そして生前、それぞれ流派をなした両大家に。驚異的なヴィルトゥオーソ、リストもまた、昨年、最後のパリ旅行をした数週間後に亡くなった。パリでは、喝采と祝宴が彼の体力を消耗させたものの、彼の豊かな知性の高度で見事な能力が弱ることはなかった。
- María Francisca de Sales Portocarrero y Kirkpatrick, duchesse d'Alba(1825?1860):1860年9月16日に亡くなった。
- 原注:[オベールは]後に二等勲章を受勲する。
- 第6代男爵ジョージ・ゴード・バイロンGeorge Gordon Byron, 6th Baron Byron(1788~1824):英国の詩人で、リストはバイロンの詩から多くの着想を得ている(《巡礼の年 第1年、スイス》、交響詩《タッソー》など)。マルモンテルはそのことを承知で、バイロンを引き合いに出している。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。