19世紀ピアニスト列伝

アレクサンドル・ゴリア 第2回:デビューから結婚まで

2016/08/19
アレクサンドル・ゴリア
第2回:デビューから結婚まで

パリ音楽院で順調な滑り出しを見せたゴリア。その才能を高く買ったヅィメルマン教授は、彼を自宅のサロン・コンサートに招いたり、出版社を紹介したりして、ゴリアに活躍の場を与えます。こうした伝統は、20世紀後半まではパリ音楽院でよく見られた古き良き伝統でした。

アレクサンドル・ゴリア

 ゴリアの成功は、ごく普通の、一様のものでしかなかった。1834年、彼はピアノで二等賞を、翌年に一等賞を獲得した。彼は1839年まで音楽院で勉強を続け、ドゥルランの講義を受けた1。ドゥルランは優れた芸術家で、厳しくも的確な指導のできる教師だった。長く愛情をかけてくれるおかげで、彼[ドゥルラン]が時折口にする、独特だが乱暴な毒舌は忘れてしまうのだった。

 ゴリアが芸術家たちの生きる戦闘的な世界で演奏し、ヴィルトゥオーソならびに作曲家という、いずれにおいても活動的な生活に乗り出すときがやってきた。ゴリアの初期の試行錯誤を経て、彼はヅィメルマンを介して熱心な出版者たちを見つけ出した。ヅィメルマンは、彼の[サロンで行われていた]興味深い[音楽家の]集い2で、自身の愛弟子を売り出すことに飽き足らず、ゴリアの顧客の最初の基礎を固めてやりつつ、なおいっそう強力に彼をバックアップした。ゴリアへの賛辞として、次のことを書き加えておこう。彼は名声を得た後も、助言と強い影響力でもって、たいへん寛大に助けてくれた師への愛着と感謝の気持ちを、少しも変えることはなかった。さらに、次のことを思い出すにつけ、強い喜びがこみ上げてくる。ヅィメルマンは音楽院を退いた後、かつての弟子だったゴリアルフェビュル[=ヴェリー]、大家ヴュータン3に、初期の試作やグノー――彼はゼバスティアン・バッハの前奏曲による有名な歌曲の作者である――の手稿譜の原物4を託したのであった。ヴァイオリニストのエルマン5は、あのすばらしいメロディの演奏に当初から参加していた。ドイツの大家[バッハ]の和声のキャンバスの中で、その旋律は、かくも見事に縁取られているので、和声と旋律を切り離すことは、現実的に不可能である。この編曲は大成功を収めたので、グノーは広まった熱狂に応えるべく、教会用であれ劇場用であれ、この作品の効果や音響の規模を、[様々な編成の編曲を制作することによって]拡大しなければならなかった6。そのことで、ベルリオーズは、ある収益演奏会7の最中に短く言葉に棘を含ませて、私にこう言った。「5幕に編曲されたバッハのプレリュードに、私は失望しとらんよ」8

 サロンとコンサートで引っ張りだことなってもてはやされたゴリアは、急速に腕の立つヴィルトゥオーソとして名声を勝ち取り、V. アルカンE. プリュダンラヴィーナラコンブフランク、フォルグ9、その他、ヅィメルマンのすべての弟子たちと、フランスのピアノ楽派を代表する名誉を分かち合った。ヅィメルマン教授の顧客は、若き大家の高まる名声に注目し続けた。ゴリアは、音楽の集いで幾度となく演奏し、自分宛てに送られて来る招待を断ることはめったになかった。だが、サロンを主催する愛好家から特別の優遇を受けていた多くの芸術家に倣って、彼は毎年、自身の利益のためにコンサートを催し、こうして[彼・彼女らを招待することで]、周囲の人々に負っている恩義をごく定期的に返していた。

 ゴリアはまだ若かりし頃、魅力的で教養豊かで、大変美しい女性と結婚した。神は、長年経験を積み、長らく幸運を手にしてきたこの輝かしい芸術家のために、[この幸福を]定めておいて下さったかに見えた。しかし、青春の夢が破滅するまでに、数年もかからなかった。このあっという間の破局に関しては、彼自身にも相当の原因がある。しかしながら、この破局の原因が、不快な風評によって誇張されたということを述べておこう。力漲る風貌と、いくぶん粗野なゴリアの外観は、一見不器用そうに見えながら、その下に独特の精神を隠しており、そこに宿る当意即妙の才気とユーモアに富む機知は、しばしば人を驚かせた。ゴリアのことを十分に知らない人々は、彼を、思い上がりで尊大で、自身の長所にうぬぼれているのだと思った。こうした不愉快な評価は、取るに足らないいくらかの理由によって説明がつく。すなわち、たいへん高いゴリアの身長、あの場所塞ぎな体格、あのヴィルトゥオーソが平静の下に装おうとした本当の内気さ――そんな装いは、ぎこちなさをますます誇張するばかりだったが――に向けられた当然の反応だったのだ。

参考音源
ゴリアに献呈されたグノーの《瞑想曲(アヴェ・マリア)》ピアノ独奏版
(演奏:金澤攝)
  1. 時パリ音楽院の名簿によると、1836年6月15日から1838年までドゥルランのクラスに在籍したが、彼は賞を取ることなくクラスを去っている。
  2. ヅィメルマンは1832年頃から45年まで、国内外の著名音楽家や生徒たちを自宅に招いて音楽の夜会を催していた。ゴリアは1834年にヅィメルマンのサロンでショパンのピアノ協奏曲の一つを演奏している。
  3. アンリ・ヴュータンHenri Vieuxtemps
  4. これは今日《アヴェ・マリア》として知られている有名な作品で、ヅィメルマンの義理の息子だったグノーは、ヅィメルマンのために作曲したことが知られている。グノーは、この作品をピアノ独奏用に編曲し、ゴリアに献呈した。金澤攝『ピアノ・ブロッサム』第1回を参照。
  5. エルマンConstant Herman (Hermant dit, 1823~1903)は、フランスとベルギー国境に近い北部の街ドゥエー出身のヴァイオリニスト、作曲家。ゴリアと同年生まれ。筆名として、彼はアドルフ・エルマン(Adolphe Herman)を名乗っていた。1836年に音楽院に入学、ゲランのクラスでヴァイオリンを学び、1840年に二等賞、翌年に一等賞を獲得。ヴィルトゥオーソとして、グノーの作品を含む、オペラ等の主題に基づく多くの演奏会用作品を残している。
  6. グノーによる編曲の経緯は、金澤攝『ピアノ・ブロッサム』第1回に詳しい。
  7. 収益演奏会(concert à bénéfice):18世紀から19世紀に見られた劇場の謝礼体系で、上演で劇場が得た入場収益を、出演者に渡す方式のもの。
  8. 脚注8:「5幕に編曲された」とは、当時、フランスのオペラ座で上演されていたグランド・オペラ(グラントペラ)のことを指している。グランド・オペラは、歴史や宗教など、シリアスな内容を扱うフランス・オペラのジャンルである。ベルリオーズは、バッハの前奏曲が、当世風の劇場様式に編曲されたことに皮肉を言っている。
  9. エミール・フォルグVictor émile-Esprit Forgues(1823~1876)はパリ音楽院でヅィメルマンに師事したピアニスト兼作曲家の一人で、1839年にピアノの二等賞、翌年一等賞を獲得。1842年から45年まで専攻外ピアノクラスで教鞭を取った。以後、フランスおよび諸外国でヴィルトゥオーソとして成功を収めた。《悲愴的》と題された超絶技巧練習曲集が主要作と見られるが、一曲を除いて出版が確認できない。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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