ルフェビュル=ヴェリー第2回:当代最高オルガニストとしての評価と作品への批判
第2回:当代最高オルガニストとしての評価と作品への批判
19世紀の後半は、パリの都市化と産業化が進み、オルガン製造も大いに発展しました。ピアニスト兼オルガニストのルフェビュル=ヴェリーは、本文にも登場するカヴァイエ=コルやチェレスタの生みの親、ミュステルといった楽器製造者の活躍と呼応するように、当代第一のオルガニストとしての比類ない存在として一目置かれました。しかし、オルガン音楽に世俗的な様式を導入したことで、音楽界の「謹厳家」たちから批評を被りました。
一家の主となったルフェビュルは、もはやヴィラ・メディチ1を夢見ることはなかった。幸福な夫は、それまで以上に自由だとはいえ、いっそう危うい人生を追い求めて家庭を離れようなどとは、考えもしなかった。かくして、彼には新たな義務が課された。彼は、この静かな幸福に少しばかり金色の輝きを添えるため、高貴な芸術と、軽い作品の出版に、同時に取り組まなくてはならなかった。このオルガニスト[ルフェビュル=ヴェリー]は、平易で優雅な音楽の作曲家になったのである。《修道院の鐘》2、《騎馬狩猟》3、《軍隊の帰営》4、《潟》5、《グラツィエッラの夢》6――こうした多くの性格小品の出版者たちは、才気あふれる小曲(ブリュエット)――これらの曲では、霊感と煌くメロディの精彩とが一体となっていた――が、どれほど流行したかを証言できる。
こうした見事な成功、つまり、仕事の難しさ、気品、正確さ、純粋さ――それはつねに幻想の領域内で注意深く保たれている――ゆえの成功に嫉妬する、頭の固い芸術家や社交嫌いの謹厳家たちは、ルフェビュル=ヴェリーが気安いミューズにこれらの捧げものをしたと、声高に非難した。だが、彼は、その間にも構わず一曲のソナタ、複数の交響曲、練習曲集を書き、厳格な作曲をやめたわけではないことを示した。
ルフェビュル=ヴェリーがオルガンで即興をすると、彼の右に出る者はいなかった。いかなるヴィルトゥオーゾも、彼の如く、オーケストラの絶大なパワー・多種多様な音色と、人声や大合唱の感動的な音調を併せ持つ巨大な楽器の表現力を持ち合わせてはいなかった。エネルギッシュで情熱的な意志にいつも従う、彼の豊かで溢れんばかりの想像力は、感情のあらゆるニュアンスに順応していた。少しの誇張もなく言えるが、ルフェビュル=ヴェリーは、教会であれサロンであれ、オルガンの至高の天才だった。熱烈に彼を称賛したカヴァイエ=コル7、アレクサンドル8、ドゥバン9、ミュステル10といったオルガン製造者たちは、彼の極めて巧みなタッチの下で鳴り響く楽器の美点を隅々まではっきりと聴かせることに関して、この若き大家の途方もない技量と並外れた創意を証言することができる。ほんの2,3時間、彼が楽器に向かえば、どんな新しいオルガンも、何一つ彼に隠し立てすることはできなかった。なにしろ音色の組み合わせも、ストップの取り合わせも、何もかも彼は見抜いてものにし、他の人には抗う楽器でも、彼は手馴づけてしまうのだから。このオルガニストは、もっとも厄介なじゃじゃ馬を手なづける真の名騎手となって、この鳴り響く巨大な機械を御していたのだ。
私は、サン=ロック教会、サン=シュルピス教会、マドレーヌ寺院で、ルフェビュル=ヴェリーの演奏を、ごく個人的に聴くことがよくあった。この大オルガニストは、自らの力量を自覚しつつ、芸術家でもある友人に聴かれていることを分かっていたので、即興し、決して忘れえぬ心の激情と熱意とをもって、創造力を披露した。また、彼が公の場、そう、モザン11の葬儀で演奏した時のことも思い出される。この時、ルフェビュルは、深くも豊かな悲しみに心動かされ、霊感を受けて、ありったけの心をこめて、卓越したスタイル――それは、その即興がまるで練習しておいた曲のようだ、とオベールを感服させた様式だ――で即興した。
全く古びた決まり文句を頑なに手放さない厳格主義者たちが、ルフェビュル=ヴェリーに向けた、多大な非難の話題に移ろう。この非難とは、努めてシリアスで厳格な様式を用いることを知らず、むしろ我々[フランスの]教会が有する荘厳な明快さと手を携えている、という非難である。もっぱらドイツ及びフランドル楽派のみを信奉する者たちにとって、即興演奏家は――たとえ彼が天才であっても――熱っぽい想像力に駆り立てられて、聖域の瞑想、宗教音楽に相応しい峻厳さ、権威と言わないまでも、少なくともやくざの掟のようなものを忘れるようなことがあってはならないのだ。だが我々は反駁する。こうした究極かつ不変の完成は、不毛と退屈に近いものである、と。人はその時代らしくあらねばならぬものだ。ケルビーニ、ルジュール、パエール、ロッシーニ、オベール、アレヴィ、アダン、トマ、グノーといった作曲家たちは、このことを完全に理解していたので、
時代遅れの信仰に加わることなく、偉大な宗教的息吹を宿す、感動的できわめて純粋な教会作品を書いたのだ。
- ローマ賞を受賞した学生の留学先であるローマの館。1544年にフェルディナンド1世・デ・メディチが建造させた。
- Louis James Alfred Lefébure-Wely, Les cloches du monastère op. 54, 3e édition, Paris, Alexandre Grus, 1850, 9p.
- Idem, La Chasse à courre, fantaisie pour le piano op. 64, Paris, Colombier, 1851, 11 p.
- Idem, La Retraite militaire, caprice de genre pour le piano op. 65, Paris, Colombier, 1851, 9 p.
- Idem, N° 3 « Les Lagunes », extrait de Les Pensées d'album, Paris, Heugel, 1862.
- Idem, N° 1 « Le Rêve de Graziella », 3 Morceaux caractéristiques pour le piano, Paris, Heugel, 1857.
- アリスティード・カヴァイエ=コルAristide Cavaillé-Coll (1811-1899):フランス、モンペリエ出身のオルガン製作者。ロッシーニの勧めで1833年からパリに定住し、49年まで父、兄とともに制作を手がけた(ノートル=ダム=ド=ロレット教会、1838;マドレーヌ寺院、1846など)。1850~60年代は急速に制作事業を展開し、サン=シュルピス教会、ノートルダム寺院のオルガンを製作し、名声を北米にまで轟かせた。ルフェビュル=ヴェリーに加えて、フランク、サン=サーンス、ジグー、フォーレ、レンム、ヴィドール、ギルマンといった作曲家、オルガニストたちはカヴァイエ=コルと相互に助言しあった。マドレーヌ寺院(1846)、トロカデロ宮殿祝祭ホール(1878、初の演奏会用オルガン)などのオルガンも手がけており、19世紀フランスの最も重要な楽器製作者の一人。
- アレクサンドル父子Alexandre Père & fils:自由簧楽器製作者。父ジャコブ(1804~1876)と息子エドゥアール(1824~1888)によって経営された楽器店で、父が1829年に起業。初めはアコーディオンとハーモニカを製造したが、やがてリード・オルガン製作へと関心を移す。1843年に「メロディウム」と名付けたハルモニウムが代表的商品となった。フランツ・リストは、1852年にアレクサンドル社に「ピアノ=ハルモニウム」という、両楽器を組み合わせた楽器を、アレクサンドル親子の友人だったベルリオーズを介して発注し、実際に製作された。一般向けの安価な室内オルガン製作で成功し、1860年以降、工場生産により効率を上げ成功するが、1877年に売り上げと工場用地の賃貸バランスが悪化し破産申告した。
- ドゥバンAlexandre-François Debain(1809~1877)は、フランスの鍵盤楽器製作者。エラールやサックスなど、数々の楽器製作者のもとで見習い時代を過ごしたのち、1834年にパリでピアノ製造者として独立するも、1836年に破産。すぐさまリード・オルガン製作に転向し、ハルモニウムを開発、1843年に特許を取得。発想豊かな楽器製作者で、ピアノ、チェレスタ、カスタネット、時計の音を出す5段鍵盤の精緻なハルモニウムを製作したことでも知られる。
- ミュステルMustel:フランスの自由簧楽器製作者の一族で、創始者はヴィクトール(1815~1890)。彼は修行時代を経て1851年に独立、1855年の万国博覧会でハルモニウム製作者として評価されメダルを獲得。1840年、42年に生まれた二人の息子シャルル(1840~1893)、オーギュスト(1842~1919)が1866年より事業に加わり社号を「V.ミュステルと息子たち」に変更、独自のストップの改良に努めた。1865年にティポフォンと呼ばれる49鍵をもつ楽器を開発、最初のチェレスタとして知られる。1889年の万国博覧会でヴィクトールは大賞を獲得。オーギュストの後は、その息子アルフォンスが継いだ。カヴァイエ=コルと同様、ルフェビュル=ヴェリーやフランク、グノーといった音楽家としげく交流した。
- テオードール・モザンDésiré-Théodore Mozin(1818~1850)はフランスのピアニスト兼作曲家。パリに生まれ、パリ音楽院に学ぶ。ヅィメルマンのクラスで1837年に1等賞を得、次いで対位法・フーガ、及びオルガンのクラスで39年にそれぞれ一等賞と二等賞。1841年にローマ賞コンクールで大賞の次席を獲得。1848年に母校でソルフェージュ科の教授となるが、50年に他界。夭折したため寡作だが、20点ほどの出版された作品が確認されている。ヅィメルマンに献呈した《6つの特別な練習曲》作品10、チャールズ・ハレに献呈した《ノクターン 第1番》作品16など。
金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。